三田井郷(読み)みたいごう

日本歴史地名大系 「三田井郷」の解説

三田井郷
みたいごう

高知尾たかちお庄に属する中世の郷。現高千穂町三田井を遺称地とする。三田井には高千穂神社(十社大明神)が鎮座する。天慶年間(九三八―九四七)豊後最大の豪族大神氏の祖惟基の長子政次が当地に入り高千穂氏を称したという。豊後大神氏の系図(都甲家蔵)では惟基を豊後介大神良臣の孫とし、政次は高千穂太郎、その子息政房は三田井小太郎を称したと記される。文治五年(一一八九)の十社大明神記(高千穂神社文書)では高知尾山の奥の穴に住む鬼の頭目大生が神武天皇の王子と家臣に三田井原で討たれたと記され、三田井が高知尾の中心地として古くからの伝承をもっていたことが知られる。鎌倉時代初頭には土持氏地頭であったが(建久図田帳)中期には熊野山領高知尾庄の地頭は惟基の子孫の高知尾氏であり、建長六年(一二五四)四月二六日の関東下知状案(田部文書)には地頭高知尾三郎政重がみえる。ところが、文保二年(一三一八)までには島津忠宗が高知尾庄地頭職に任じられており(同年三月一五日「島津道義譲状」島津家文書)、政重の子息明覚は三田井三郎入道明覚と称するようになる(貞和三年二月日「浦上香童丸申状土代」田部文書)。建武五年(一三三八)八月日の宗重申状土代(同文書)によれば、十社大明神の神主宗重はすでに二六代にわたって他人を交えず神事を行ってきたが、三田井武政が神事を妨害したため三田井かみの村社司と神主の対面ができず、神事の違乱が多年に及んでいると訴えた。また三田井長崎ながさき村の所役が退転状態にあると訴え、その興行を求めている。ここにみえる三田井武政はおそらく三田井三郎入道明覚をさし、相論の背景には支配をめぐる庄預所の浦上氏と三田井氏の複雑な関係があったと思われる。

興国二年(一三四一)四月二三日の後村上天皇綸旨写(阿蘇文書)によれば、明覚の所領(三田井郷地頭職)芝原しばはらの豪族芝原性虎に宛行われ、同年五月八日の征西将軍宮令旨写(同文書)によると安堵された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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