三木郡(読み)みきぐん

日本歴史地名大系 「三木郡」の解説

三木郡
みきぐん

讃岐国の東部に位置し、東は寒川さんがわ郡、西は山田やまだ郡、南西は香川郡、南東は阿波国、北は山田郡と接し、北東部が志度しど湾に面する。現木田きた郡を郡域としたが、現庵治あじ町域は中世に山田郡に移った。御城・御貴などとも記した。

〔古代〕

「日本書紀」持統天皇三年(六八九)八月二一日条に「讃(岐)国御城郡」、「日本霊異記」には「讃岐国美貴郡」とみえる。郡名の確かな初見は、天平一七年(七四五)九月二一日の智識優婆塞等貢進文(正倉院文書)にみえる「讃岐国三木郡冰上郷」である。平城宮跡出土木簡には「讃岐国三木郡池辺」「讃岐国三木郡牟礼里」と記したものがある。「和名抄」には当郡所管の郷として井閇いのへ高岡たかおか氷上ひかみ田中たなか井上いのへ池辺いけのへ武例むれ幡羅はら八郷を記す。井閇は中世には井戸いどと、武例・幡羅両郷は古代・中世には牟礼むれはらとそれぞれ表記されている。奈良時代において郡内に奈良法隆寺領の庄園二ヵ所が存在したことが天平一九年二月一一日の同寺伽藍縁起并流記資財帳(正倉院文書)にみえるが、その所在地は不明である。延喜式内社は小社の和爾賀波わにがわ神社がある。同社は現木田郡三木町の和爾賀波神社・鰐河わにがわ神社に比定する両説がある。平安時代に成立した庄・保としては、山城石清水いわしみず八幡宮領の牟礼庄、奈良東大寺領の原保がある。「吾妻鏡」などによれば、屋島合戦に際して、源義経軍は牟礼郷および隣接する山田郡高松郷の民家を焼いたうえで屋島へ攻めかかったという。

〔中世〕

嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の院分国讃岐国内の公領を書上げた個所には、「和名抄」にみえる井戸(閇)・高岡・氷上・田中・井上などの郷名がみえ、当郡の郷のほとんどは鎌倉時代後期まで公領に所属していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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