三好元長(読み)みよし・もとなが

朝日日本歴史人物事典 「三好元長」の解説

三好元長

没年:天文1.6.20(1532.7.22)
生年:文亀1(1501)
戦国時代の武将。長秀の子。幼名千熊丸。筑前守。のち長基と改名。永正17(1520)年5月の洛中等持寺の戦で祖父之長が敗れ刑死したのち,三好氏の家督を継ぐ。大永6(1526)年10月,丹波の柳本賢治らが執政細川高国に反すると連動して阿波挙兵し,細川澄元の遺子晴元を擁した。一族三好勝時らの活躍で翌7年2月山城桂川で高国が敗れると,翌月晴元と足利義晴の兄弟義維を擁して堺に上陸。高国らは近江へ逃亡し,義維,晴元,元長の3者を軸とする堺公方府が成立,事実上畿内を支配した。元長はこの政権で山城守護代に補任され,晴元軍の中核を構成したが賢治らに讒され,享禄2(1529)年8月いったん阿波に帰る。しかし西から高国が挽回して同4年3月摂津天王寺に進出すると,晴元の要請を受けて出兵,同6月高国軍を大破した(天王寺崩れ)。しかし結局晴元の疑いは解けず,翌年6月,晴元の使嗾で蜂起した一向一揆の攻撃で自刃。長慶はその子。<参考文献>長江正一『三好長慶

(今谷明)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三好元長」の解説

三好元長 みよし-もとなが

1501-1532 戦国時代の武将。
文亀(ぶんき)元年生まれ。三好之長(ゆきなが)の孫。阿波(あわ)(徳島県)の国人。大永(たいえい)6年(1526)細川晴元を補佐して挙兵。翌7年管領細川高国を京都から追い,足利義維(よしつな)をたてて和泉(いずみ)(大阪府)堺に公方府をひらいた。享禄(きょうろく)4年再起をはかった高国をほろぼすが,忠誠心をうたがう晴元の策謀により本願寺の一揆(いっき)軍に包囲され,同5年6月20日堺で自害。32歳。名はのち長基(ながもと)。

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世界大百科事典(旧版)内の三好元長の言及

【三好氏】より

…室町時代の武家。清和源氏の分流武田氏から分かれた小笠原氏の末流。承久の乱後,阿波守護となった小笠原長清は甲斐から阿波麻殖(おえ)保に移り,その10代後の義長のとき三好郡芝生(しぼう)(現,徳島県三野町)に住み,初めて三好氏を称した。応仁の乱ころには阿波屈指の国人に成長し,守護細川成之の被官として三好,美馬,板野3郡を支配,1506年(永正3)細川政元の猶子澄元の側近として上洛した三好之長(ゆきなが)は,やがて摂津守護代となり,澄元没落後はしばしば再起を企てたが20年刑死した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」