ランDMC(読み)らんでぃーえむしー(英語表記)Run-D. M. C.

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ランDMC」の意味・わかりやすい解説

ランDMC
らんでぃーえむしー
Run-D. M. C.

アメリカの3人組ラップ・グループ。ラップ・ミュージックがロック・ファンにも広く受け入れられる契機をつくった最初のグループとして知られる。1982年ニューヨークで結成された。

 ランRun(1964― 、本名ジョセフ・シモンズJoseph Simmons)とダリル・マクダニエルDarryl McDaniel(1964― )がラッパーで、彼らは高校時代から自分たちの名前をつなげてラン・アンド・DMCと名乗って活動していた。彼らをバックアップしていたのが、ランの兄ラッセル・シモンズRussell Simmons(1957― )だった。ラッセルはニューヨークの若い黒人たちを集めたラッシュ・プロダクションを経営し、1980年代なかばに設立したデフ・ジャムレコードで大成功を収める。82年、高校を卒業したランとマクダニエルは、友人のDJをチームに参加させる。それがジャム・マスター・ジェイJam Master Jay(1965―2002、本名ジェーソン・ミゼルJason Mizell)だった。

 翌83年、彼らの最初のシングル「イッツ・ライク・ザット/サッカーMCズ」が発売される。ランDMCはこのシングルで、それまでのラップにあった滑(なめ)らかなダンス・ビートとは反対の、重厚なビートを用いていた。彼らが打ち出したビート感覚の中には、ハードなサウンドを聴かせるロック・バンドのそれと同質のものが隠されており、この音楽性が黒人以外のリスナーをラップに引き寄せることになった。

 84年デビュー・アルバム『ランDMC』が発売された。これまでにない音づくりは、さらに85年の『キング・オブ・ロック』という、大上段にかまえたタイトルのアルバムで大ブームとなった。重量感のあるドラム・ビートを基調とし、ロックとラップを融合させた彼らのサウンドは、パブリック・エナミービースティ・ボーイズなど、後に続いたグループに大きな影響を与えた。また彼らは音楽だけではなく、愛用のアディダス社製スニーカーやジャージを若者文化の最新流行へと担ぎ上げるなど、ファッションにも強い影響力をもっていた。

 彼らの人気は3枚目のアルバム『レイジング・ヘル』(1986)で最高潮に達する。当時のヒップ・ホップ・ファッションを象徴するヒット曲「マイ・アディダス」はもちろんのこと、なによりスティーブン・タイラーSteven Tyler(1948― )とジョー・ペリーJoe Perry(1950― )というエアロスミスの中核メンバーをわざわざ招いて吹き込んだカバー曲「ウォーク・ディス・ウェイ」は、ラップとロックの橋渡しをした画期的作品となっただけでなく、低迷していたエアロスミスの息すら吹きかえさせた。

 88年は『タファー・ザン・レザー』、90年は『バック・フロム・ヘル』が発売される。しかしラップの変化は激烈であり、90年代になるとランDMCはパブリック・エナミーやニガー・ウィズ・アティチュードから派生したミュージシャンなど、さらにハードコアなラップ・グループにトップの座を奪われていった。その後、ランとマクダニエルは華やかな芸能界と一線を画し宗教活動を行うようになり、ランは牧師となって2000年には回想録も出版した。02年、ジャム・マスター・ジェイは地元ニューヨークのスタジオで何者かに頭を撃たれて亡くなり、これを機に残された2人はグループの解散を発表した。

[藤田 正]

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