モンテスパン夫人(読み)もんてすぱんふじん(英語表記)Marquise de Montespan, Françoise Athénaïs de Rochechouart de Mortemart

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モンテスパン夫人」の意味・わかりやすい解説

モンテスパン夫人
もんてすぱんふじん
Marquise de Montespan, Françoise Athénaïs de Rochechouart de Mortemart
(1641―1707)

フランス王ルイ14世の愛妾(あいしょう)。父はシャラント地方の領主モルトマール公。1663年モンテスパン侯と結婚(76年離婚成立)。1664年、宮廷の王妃付女官となり、67年以降、国王の寵(ちょう)を受けた。王は夫人のために小トリアノン宮やクラニー館を造営し、豪華な暮らしを許した。その間に産まれた8人の子のうち、メーヌ公をはじめ6人が成長した。しかし、つねに周囲の敵対者に気を配り、国王側近の第一人者ルーボアの陰謀ともいわれる「黒ミサ事件」(1680)に巻き込まれ、1691年に宮廷から引退し、晩年サン・ジョセフ尼僧院で信仰生活を送った。ブルボン・ラルシャンボーで温泉療養中、1707年5月27日死去。

[千葉治男]

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世界大百科事典(旧版)内のモンテスパン夫人の言及

【私生児】より

…しかし,中世においても,なお伝統的な行動様式は根強く残っており,とりわけ貴族層においては,家の後継者を確保し,家門の隆盛をはかるため婚姻外の交渉をもつことが広く許容され,そこに生まれた私生児も,家門に連なる者として高い地位を与えられている例が多い。こうした風習はアンシャン・レジームにまで及んでおり,ルイ14世がモンテスパン夫人との間にもうけた私生児を重用し,王位継承権まで与えようとしたことはよく知られている。これに反し,平民の間では,一夫一婦制に基づく私生児の排除という社会的規範は,かなり強力に機能していたと見られる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」