出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
(1)パリのブランシュ広場の舞踊場,娯楽劇場。建物に取り付けられた巨大な〈赤い風車(ムーラン・ルージュ)〉がこの劇場の象徴で,それがそのまま名称となっている。1889年に舞踊場(ダンスホール)として開場,キャバレー形式のショーをアトラクションとして見せた。特に,フレンチ・カンカン(カンカン)と呼ばれる快活でエロティックな踊りが呼物となり,〈世紀末のパリ〉における代表的な娯楽場となった。このころのムーラン・ルージュの雰囲気は,《ムーラン・ルージュにて》(1892)などH.deT.ロートレックによる幾多の傑作によってよく知ることができる。
1903年に改造されて客席と舞台を分けた劇場形式となり,レビューやオペレッタが盛んに上演された。14年に火災で失われたが,第1次大戦後に再建され,特に20年代後半にはシャンソン歌手・女優のミスタンゲットを中心とする大レビューを上演して,ミュージック・ホールとしての黄金時代を築いた。しかし29年,当時はじまったトーキー映画におされて映画館に転向した。なお20年代半ば以降に,ミュージック・ホールと併置されるかたちとなった舞踊場では,今日も観光用のレビュー,カンカンが行われているが,昔日の活況はしのぶべくもない。
執筆者:川添 裕(2)日本の劇団・劇場名。正式名称は〈ムーランルージュ新宿座〉。1931年12月,佐々木千里がパリのミュージック・ホールの名をとって軽演劇の一座を東京新宿で旗揚げ,都会感覚のしゃれた風刺喜劇が知識青年に大いに受けた。伊馬鵜平(伊馬春部(いまはるべ)),斎藤豊吉,山田寿夫,穂積純太郎,小崎政房,菊岡久利らの文芸部が充実し,中根竜太郎,有馬是馬,竹久千恵子,明日待子,望月美恵子らの俳優で人気を得た。第2次大戦中は改名を余儀なくされたが,戦後も中江良夫や森繁久弥で脚光を浴びた。だが51年にヌードショーに追われて解散した。
→軽演劇
執筆者:野村 喬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…第1次大戦ころからラジオや映画に押されて衰え始め,その後テレビの普及で完全に消えてしまったが,ミュージック・ホール風の芸はイギリスのパントマイムやミュージカルに伝えられている。ほかに同時代のフランスでもイギリスのものを模してミュージック・ホールが建てられ,1869年開場のフォリー・ベルジェールFolies‐Bergères,89年開場のムーラン・ルージュなど,パリのホールが人気の中心となった。アメリカにも類似の芸能があり,ボードビルと呼ばれる。…
※「ムーランルージュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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