日本大百科全書(ニッポニカ) 「劇場」の意味・わかりやすい解説
劇場
げきじょう
演劇、舞踊、オペラなどを上演し、多数の観客が集まってこれを観覧するための施設。西欧各国の劇場をさすことばのもととなったのは、古代ギリシア劇場の階段状の観客席をさすテアトロンtheatronである。英語のシアターtheatre, theater、フランス語のテアートルthéâtre、ドイツ語のテアーターTheater、イタリア語のテアトロteatroなどはすべてこのギリシア語に由来するもので、劇場という意味から、さらに演劇そのものをもさして用いられる。
[横山 正]
欧米の劇場
ヨーロッパの劇場の源流は古代ギリシアおよび古代ローマの劇場にある。いずれの文化においてもそうであったように、原初の演劇は祭祀(さいし)と分かちがたく結び付いており、古代ギリシアの劇場はディオニソス神祭祀にかかわる場として聖域に建てられた。アテナイのそれがアクロポリスの麓(ふもと)に営まれたのはその一例である。ギリシアの劇場の構成は、初め、コロス(合唱団)の演技する円形の平土間(オルケストラorchestra)を階段状の観客席(テアトロン)が囲むものであった。しかし、ドラマとしての構成が進み、コロスのなかから俳優が独立するにしたがい、舞台正面のスケネskeneとよばれる建物が楽屋となり、さらにその前の細長い歩廊のプロスケニオンproskenionが俳優の演技の場として用いられ、スケネの壁面がいわば舞台の背景を形づくるようになった。遺構の現存するもののなかでギリシア劇場の姿をもっともよく伝えるエピダウロスの劇場(前4世紀)は、すでにこの形態を示している。
古代ローマの劇場はこのギリシア劇場の形式の発展であるが、オルケストラが半円形になって観客席が舞台に相対する度合いがさらに強まったほか、舞台に木造の屋根がかけられたのが特徴であった。観客席に布製の日よけがかけられることもあったようである。しかし最大の変化は、ローマ人が連続アーチを重ねる架構を応用したことで、これによって劇場は、丘の斜面を離れて平地に自由に建てられるようになり、演劇の祭祀からの自立と相まって、古代ローマでもっともポピュラーな公共建築の一つとなった。ローマ劇場の遺跡は今日ヨーロッパの各地にみることができる。
中世における演劇活動の活発化は、おそらく10~12世紀の中世都市の勃興(ぼっこう)と軌を一にしていると思われる。しかし、固定した劇場建築の存在を裏づける資料は発見できない。中世において盛んに行われた受難劇などの上演は、木造の仮設舞台を聖堂前の広場や中央広場にいくつも並べる形か、あるいは山車(だし)式の移動舞台によって行われた。仮設の舞台は古代ギリシアの旅役者によってもすでに使用されており、ルネサンス以後も劇場建築とは別に、祝祭のページェント、旅役者の興行の場として、演劇の原初的な感動をよみがえらせる存在であり続けた。
劇場建築の再興は、ルネサンス期の古代劇上演と、それに伴う古代劇場再現への模索に始まった。人文主義者たちによるその上演は、まずは宮廷の広間や庭園に仮の舞台を設けてのものであり、やがて宮廷あるいは当時西欧各地に生まれつつあったアカデミーのための恒久的な劇場の創設へと向かった。この間の重要なできごとは、透視図法の開発とその研究の進展で、これは背景画の発達、さらには消点をすこしずつずらせた書割を幾枚も重ねて見せる技法など、舞台空間の展開に大きな影響を与えた。なかでも16世紀前半のイタリアの建築家S・セルリオが、紀元前1世紀のローマの建築家ウィトルウィウスの記述に従ってその『建築書』に載せた、喜劇・悲劇・サティロス劇3種用の舞台背景図は、とくに人々の広く知るところとなり、その影響も大きかった。前二者は王宮や神殿、あるいは町屋と、いずれも建築や市街を描くものであったが、サティロス劇用のものは自然の森を描いており、これは当時愛好された牧歌劇のかっこうの背景となるものであった。
16世紀イタリアの恒久的な劇場施設として現存する最古のものは、建築家A・パッラディオの設計になるビチェンツァのアカデミーの劇場、オリンピコ座(1584竣工)である。これは市街風景をバックにした奥行の浅い舞台に半楕円(だえん)形の観客席が相対する、古代ローマ劇場の形式に倣った構成であった。ここでは舞台背面の街路が、錯視の利用で実際よりもはるかに深く見えるように仕組まれているのが興味深いが、この種の仕掛けは多かれ少なかれこの時代の舞台構成に見られるものであった。ただ16世紀のイタリアの劇場建築の主流は、オリンピコ座のような形式のものではなく、テアトロ・ダ・サーラとよばれる、広い矩形(くけい)のホールの短辺に舞台がとられ、他の3辺に観客席のとられる形式のもので、中央の平土間が主たる演技空間であった。パラディオの弟子のスカモッツィが1588年にデザインしたサビオネタの劇場は、この形式と古代劇場風の形式とを折衷したものであり、17世紀初頭、この流れからプロセニアム・アーチproscenium archが舞台を観客席の空間からくぎり取る様式が生まれた。その最初の例は、G・B・アレオッティが1617年、パルマ公ラヌッチョ1世の命によって建造に着手したファルネーゼ座である。平土間を囲んでU字形をなす観客席に相対する舞台は奥行を増し、いまだ宮廷劇場の形式を踏襲しながらも、プロセニアム・アーチの額縁の中での演技を鑑賞する近代の劇場の形式(いわゆる額縁舞台)が生まれたのである。袖(そで)書割を両袖に幾層も重ねて奥行を強調するこの形式は、17世紀のなかばまでにアルプス北方の諸国にももたらされた。
一方この時代に、宮廷以外の場所での上演形式が固定化していく傾向もみられた。たとえばエリザベス朝イギリスのスワン座やグローブ劇場(グローブ座)は、何層にも重なる観客席に向かって突出した舞台をつくり、さらに高舞台も使用しての立体的な演出も行われたようである。これは旅籠(はたご)屋の中庭につくられた仮設舞台に遠源をもつものと思われるが、科学史家F・イェーツは、これらが円環に収まる平面構成をもっていることから、それを古代ローマの建築家ウィトルウィウスの『建築書』の影響下の創案とする説をたてている。続く17世紀の重要な動向は、ベネチアを中心とする大衆劇場の成立である。これは貴族がその収入源として営んだもので、プロセニアム・アーチの舞台に相対する平土間の観客席の周囲を数層の桟敷(さじき)席が囲む形につくられていた。このよく保存された例が、当時ベネチア領だったクロアチアのフバールに残っている(1612竣工)。これは以後のヨーロッパの劇場の主流をなす形式の先鞭(せんべん)をつけたものであった。すなわち、18世紀なかばまでには、プロセニアム・アーチに限られた奥行の深い舞台の前にオーケストラ・ボックスを置き、床勾配(こうばい)のある平土間の観客席と、それを囲む馬蹄(ばてい)形の幾層にも積み重なった桟敷席という基本形式が完成する。これはイタリアでまず開発されたが、オペラの隆盛とともに、従来の矩形や半円形の劇場にとってかわり、19世紀のなかばまでにはヨーロッパの大都市にこの形式による大オペラ・ハウスが建ちそろうようになる。ミラノのスカラ座(1778)、ベネチアのフェニーチェ座(1792)、ロンドンのロイヤル・オペラハウス(1849)、ウィーンの国立歌劇場(1869)などがその例であり、シャルル・ガルニエ設計のパリのオペラ座(1875竣工)は、時代的にはすこし遅れながらも、その豪華さによってこれらの頂点にたつ存在となった。こうしたオペラ・ハウスにおいては、ホワイエやラウンジなど、談笑や休息のための空間に観客席に劣らぬ広大な空間が割かれて、劇場は観劇と同時に社交の場ともなった。
こうした劇場構成の一般的な傾向に対して、近代的な視点から改革を図ったのが、建築家G・ゼンパーと作曲家R・ワーグナーである。彼らはバイロイトの祝祭劇場(1876竣工)の設計において、オーケストラ席を舞台前面下部の一段低いところに落とし込んで観客の視線を遮らないようにし、一方、馬蹄形の座席構成を廃して1層の観客席を半円形に並べ、観客席が舞台に相対してどの席も音響的、視覚的に不便のないようにした。これはワーグナーの楽劇上演にふさわしい空間創造の試みであったが、また一方、19世紀初め以来の演技鑑賞を十全に行える劇場構成を求めての科学的探求の流れにもつながるものであった。しかし、視線や音の届きぐあいを考慮して、どの座席からも平等に舞台が眺められるように設計されたその後の劇場では、客席のほとんどが舞台と向き合う形をとり、プロセニアムの採用後も馬蹄形、半円形の観客席の劇場にはまだ残されていた劇場空間の一体感は、しだいに失われていった。
こうした傾向への反省から、プロセニアムを廃し、舞台と観客席を単一の空間の中に包み込む原初的な劇場形式に戻ろうとする動きが現れる。もちろんこれは演劇のあり方そのもののとらえ直しに基づくもので、すでに19世紀なかばにも試みられた例があるが、20世紀に入ってさまざまな実験が盛んに試みられるようになり、そうした形式の劇場も多数つくられている。エリザベス朝の劇場形式の復原は20世紀初頭以来しばしば試みられており、これはプロセニアムを廃して演技空間が観客席の中に張り出すオープン・ステージの思想へとつながった。演技を単一方向からのみ鑑賞する形式をやめ、演技空間を観客席が取り囲むようにして、演劇本来の祝祭的な性格を復活させようとする試みも盛んに行われており、アメリカのワシントン大学のG・ヒューズの提唱した円形劇場運動(1932以降)は、矩形の演技空間を観客席が取り囲み、これに4本の花道がつく構成を生み出した。ドイツ出身の建築家グロピウスによる全体劇場のプロジェクト(1927)をはじめとして、この種の計画には、演技空間と観客席とを適宜入れ替えて、内部構成をそのつど転換できるようにしたものも多い。日本の1970年代に生まれたテント形式による上演も、こうした演劇空間の一体化を求める運動の一つに数えることができよう。
[横山 正]
東洋および日本の劇場
インドの劇場については、3世紀ごろの編纂(へんさん)と考えられる『ナーティヤ・シャーストラ』に、古代の聖域内につくられた劇場についての記述があり、3世紀には独立した劇場建築が建てられていたことが記されている。ここでは、舞台のすぐ背後が楽屋になり、その壁面に登退場口がとられて横引きの絵幕がかかっていたという。舞台背面は絵やレリーフで飾られていたらしい。観客席は当然、カーストによって区分されていた。
中国の劇場的な空間について具体的な記述がみられる最古の例は、後漢(ごかん)(1世紀)の文献だが、すでに5世紀までには、種々の大道具、舞台装置がつくられていたらしい。隋(ずい)代(7世紀)には戯場の名が文献にみえ、そこでの演技を棚(桟敷席)から見ることが記されている。唐代にも宮廷の室内劇場はあったが、いわゆる劇場形式がとくに発達したのは、13世紀の南宋(なんそう)から元(げん)にかけてであり、宮廷および民間の常設の劇場形式が完成した。また元代から明(みん)代にかけては、道教の廟(びょう)や観の前にも戯台(舞台)がかならず設けられている。これらの戯台は原則として吹き放ちの空間で、その背後に楽屋にあたるスペースがあって、人々はその前面広場から鑑賞した。明・清(しん)の宮廷劇場においても、戯台のある戯楼の前部は中庭に面し、庭を隔てて看戯殿がある構成であった。戯楼は3層で、神仙物の上演の際などには、これを立体的に使うこともあったようである。
日本においても神事の際用いられる舞楽のための屋外舞台は早くから発達していたが、芸能のための劇場空間の確立は鎌倉後期以降ということになろう。室町初期の1349年(正平4・貞和5)田楽(でんがく)の新座と本座が京の四条河原で行った勧進(かんじん)田楽においては、観客空間に舞台が突出し、さらにその周囲を円形に桟敷席が取り巻いている。舞台背後に二つ並んだ楽屋からは反(そ)り橋状の橋掛(はしがかり)がそれぞれ斜めに出て、中央の舞台に達している。この橋掛は機能的には楽屋と舞台を結ぶ通路だが、おそらくその長さゆえに、その途上での所作が生じ、その結果、能舞台においては、これが演技空間の一部をなすまでに至った。これは歌舞伎(かぶき)劇場の花道ともども、日本の伝統的な劇場空間の一つの特徴で、西欧近代の実験的な上演などに取り入れられている。
能舞台形式の確立は安土(あづち)桃山時代と考えられるが、これに対して江戸初期には歌舞伎の常設劇場の成立をみる。その初期のものにはまだ能舞台に近い様式がみられたが、橋掛は圧縮され、通路というよりは主舞台に添った副次的な演技空間となっていた。1664年(寛文4)にはこれまで日本の舞台空間にはなかった引幕が初めて用いられ、元禄(げんろく)期(1688~1704)までにははっきりと舞台の正面性が意識されて、舞台と観客席が向かい合う形式が明確になっている。また寛文(かんぶん)年間(1661~73)には本舞台前面の付(つけ)舞台から観客席の中を突っ切って花道が延ばされて、今日の歌舞伎劇場の姿に近くなる。この花道の使用は初めは仮設のもの(花板(はないた))で、観客がひいき役者に贈り物をするための通路であった。歌舞伎劇場の特色は大道具の開発とさまざまな仕掛けの機構の発明にあり、1753年(宝暦3)のせり上げ装置、1758年の回り舞台の創始は、大坂道頓堀(どうとんぼり)の並木正三(しょうざ)の考案によると伝える。そのほかの大掛りな仕掛け機構もほとんど、続く20、30年間に開発されている。
日本にプロセニアム型の劇場形式が本格的に導入されたのは、1911年(明治44)竣工の帝国劇場であるが、これはヨーロッパの旧来の劇場を写したものであった。これに対してヨーロッパの新しい劇場の様式を移入しようとしたのが、1924年(大正13)竣工の築地(つきじ)小劇場で、曲面のクッペル・ホリゾントなど新しい設備が目だったが、いずれも現存しない。
[横山 正]
ディオニソス劇場
エピダウロスの円形劇場
ウィーン国立歌劇場
パリ・オペラ座
シェークスピアズ・グローブ劇場
中村座
エピダウロスの円形劇場の平面図
オランジュのローマ劇場の平面図
オリンピコ座の平面図
パリ・オペラ座の平面図
帝国劇場(明治時代)
帝国劇場内部(明治時代)