ホメイニ(読み)ほめいに(英語表記)Rūhallah al-Mousavi Khomeynī

精選版 日本国語大辞典 「ホメイニ」の意味・読み・例文・類語

ホメイニ

(Rūhallah Mousavi Khomynī ルーホッラー=ムーサビ━) イラン宗教家政治家イラン革命最高指導者。パフラビー(パーレビ国王の弾圧政治に反対して国外に追放されたが、一九七九年臨時革命政府の樹立により帰国。同年一二月イラン‐イスラム共和国を成立させた。(一九〇二‐八九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホメイニ」の意味・わかりやすい解説

ホメイニ
ほめいに
Rūhallah al-Mousavi Khomeynī
(1902―1989)

イスラム教シーア派の高名な法学者、大アヤトッラー(シーア派最高宗教指導者の称号)の一人であり、イラン・イスラム共和国の初代最高指導者。イラン中部アラーク市近郊のホメイニ村で生まれ、父は宗教指導者で地主であった。アラーク、コムの神学校でハーエリ・ヤズディ師a'erī Yazdī(1859―1937)に学ぶ。1922年の同師のコムへの移動とともにコムに移り、1936年コーラン解釈権の認められるムジュタヒドに昇格した。1961年にはアヤトッラーであるボルジェルディーusayn Burūjirdi(1875―1961)死去後、書物を出版しアヤトッラーの資格を得て、過激なイスラム主義の指導者としての地位を確立した。1963年にはパーレビ(パフラビー)国王の農地改革と弾圧政治に強く反対したため、逮捕された。翌1964年4月には釈放されたが、反対運動を再開したため11月にトルコのブルサ市に追放された。1年後、シーア派の聖地、イラクナジャフに移り、親西欧的なパーレビに反対しイラン建国2500年祭を非難した。1970年に『イスラム政権――神権政治論集』を出版し、同著書は革命後のイラン政治体制の礎(いしずえ)となった。1975年イランが一党制になったことへの批判を強め、巡礼者を通じたホメイニの演説テープの流入がイラン革命の引き金になった。1978年には反パーレビ演説を行ったため、イランと関係改善を希望したイラクのサダム・フセインにより追放され、11月にパリに移動した。1979年2月、イラン・イスラム革命の勝利によって帰国した。

 革命後に、最高指導者となったホメイニは、穏健派バザルガン、バニサドルAbū al-Hasan Bani Sadr(1933―2021)を解任し、強硬な原理主義を貫いてイスラム体制を維持強化した。同時に、穏健派と強硬派を交互に調整し新体制を維持した。しかし、1987年にはイスラム共和党を解散させ、翌1988年7月に国連決議を受け入れ「毒を飲むよりつらい」と表現しつつ、イラクとの停戦を受諾した。この時期、イラン経済は革命以来もっとも深刻な事態に陥っていた。1989年の死去後、その後継はハメネイが選ばれ、コム郊外にはホメイニのための大きな廟(びょう)がつくられた。

[加納弘勝 2018年4月18日]

『共同通信社訳・刊『ホメイニわが革命』(1980)』『H・ヌスバウマー著、アジア現代史研究所訳『ホメイニー』(1981・社会思想社)』『加納弘勝・駒野欽一著『イラン1940―1980 現地資料が語る40年』(1982・中東調査会)』『富田健次著『アーヤトッラーたちのイラン――イスラーム政治体制の矛盾と展開』(1993・第三書館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホメイニ」の意味・わかりやすい解説

ホメイニ
al-Khomeinī, Ruh-allah al-Mūsawī; Ayatollah Ruhollah Khomeini

[生]1902.9.24. ホメイン
[没]1989.6.3. テヘラン
イランの宗教・政治指導者。イランの小村ホメインで祖父,父ともにイスラム教シーア派の聖職者の家系に生れる。幼少のとき父母を失い,伯母に育てられ,聖都コムでイスラム神学教育を受ける。 26年からコムの神学校で教え,哲学,法学,倫理などに関する多くの書を著わす。 63年国王ムハンマド・レザー・シャー (パーレビ) の近代化政策に反対,投獄されたのち,64年国外追放となり,トルコへ移る。 65年イラクに移り,シーア派の聖地ナジャフで「ヴェラーヤテ・ファギーフ」 (イスラム法学者による統治) 論を説き,反王制運動を呼びかける。 78年イラクから追放され,パリ郊外に居を定めて反王制運動をさらに活発化。 79年2月1日,国王退去後のイランに帰国し,イスラム革命を指導。 79年 12月に成立したイスラム共和国憲法により,国家の最高指導者の地位についたが,これは「ヴェラーヤテ・ファギーフ」論を実現したもの。その後,国内の反対勢力を一掃して聖俗両面で頂点に立つ。 80年9月に始った対イラク戦を国家間の戦争ではなく,イスラムの信者と不信心なやからとの戦いと規定し,フセイン政権打倒まで徹底的に戦う決意を示す。しかし 88年7月 20日,「毒を飲むような決断」との特別声明を発表して国連安保理停戦決議を受諾。 89年2月 14日,インド出身のイギリス人作家 S.ラシュディが書いた小説『悪魔の詩』がイスラムを冒とくするものとして,ラシュディの処刑を全イスラム教徒に呼びかける。徹底したイスラムへの回帰の主張とカリスマ性により,世界中のイスラム復古主義運動に大きな影響を与えた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ホメイニ」の解説

ホメイニ
Rūḥollāh Khomeinī

1901ごろ〜89
イラン革命を進めたシーア派イスラームの指導者
テヘラン南方のコムで学んで指導的な法学者(ウラマー)となったが,国王パフレヴィー2世の近代化政策を批判したため逮捕され,1964年亡命。その後,1965〜78年までイラクで反パフレヴィー運動を続けたが追放され,パリに亡命。1979年にイランでイスラーム革命が起こり,国王が出国するとパリから帰国。革命のシンボル的存在として,イラン−イスラム共和国の最高指導者になり,10余年にわたって政教一致の強硬な政治を展開した。

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