ノ口村(読み)ひのくちむら

日本歴史地名大系 「ノ口村」の解説

ノ口村
ひのくちむら

[現在地名]江南町樋春ひはる中央ちゆうおう

樋口とも記す。荒川右岸の扇状地の氾濫原に位置し、東は万吉まげち(現熊谷市)、西は押切おしきり村、北は荒川を境に広瀬ひろせ(現熊谷市)。村名は村内を流れる万吉堰の用水樋の取水口に由来するという(埼玉県地名誌)。万治三年(一六六〇)ほぼ南の枝郷春野原しゆんのはら村を分村(風土記稿)。慶長九年(一六〇四)三月の大久保長安等連署知行書立(記録御用所本古文書)によると武川衆に一千二五一石余が宛行われているが、同時に武川衆を率いる折井市左衛門(次忠)は「樋口之内」で一〇六石余を預けられた。田園簿では田方二四七石余・畑方一五九石余、忍藩領と旗本折居・曾我の二家の相給

ノ口村
ひのくちむら

[現在地名]久喜市樋ノ口

はら村の西にあり、北は姫宮落ひめみやおとし川を境に野牛やぎゆう(現白岡町)、東は篠津しのづ(現同上)、南はほし川を境に同村と下大崎しもおおさき(現同上)篠津村に飛地がある。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国後、柴田康忠菖蒲しようぶ五千石を領し(三千石以上分限帳「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)、当村に陣屋を置いたという(風土記稿)騎西きさい領に所属。

ノ口村
ひのくちむら

[現在地名]栃木市樋ノ口町

中仕上なかしあげ村の南、赤淵あかぶち川の左岸に立地する。東は高谷こうや村、北西栃木城内とちぎじようない村。もと栃木城内村しも内坪うちつぼといったが皆川広照の家臣猿山六郎左衛門らが開拓するにあたって、樋をもって水を引いたのが村名の由来という(年未詳「樋口村起立記」猿山晟文書)。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。同年幕府領となり、以下起立記によれば、代官竹村弥太郎に村立を願い、他国の者でも百姓をする者には田地屋敷を与えるとの高札を立てて百姓を募った。慶長一七年の検地では高一八二石余であったが、この検地に際し村方役人らが七五石余の検地分を隠して露見し、座敷牢を命じられている。

ノ口村
ひのくちむら

[現在地名]仁賀保町樋目野ひめの 樋ノ口

白雪しらゆき川中流の低地にあり、北は百目木どめき村・立井地たていち村、東は三十野みその村、南は大竹おおたけ(現金浦町)、西は金浦このうら(現金浦町)に接する。

文禄元年(一五九二)八月二〇日付の仁賀保宮内少輔宛仁賀保兵庫頭知行宛行状(秋田藩家蔵文書)に「樋口村」とある。また由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、仁賀保郷の一村として村名がある。支配の変遷芹田せりた村と同じで寛永一七年(一六四〇)以降本荘藩六郷氏領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android