日本大百科全書(ニッポニカ) 「チッソ(株)」の意味・わかりやすい解説
チッソ(株)
ちっそ
1906年(明治39)野口遵(したがう)が鹿児島県下に設立した曽木電気が前身。同社は余剰電力を利用して石灰窒素を製造するため、1908年日本窒素肥料株式会社と改称し、熊本県に水俣(みなまた)工場を操業。第一次世界大戦後に宮崎県の延岡工場で合成硫安の工業化に成功したあと、昭和初期には生産の主力を朝鮮北部の興南(現咸興(かんこう))に移し、東洋一の化学コンビナートを建設するとともに、山岳地帯で大規模な電源開発を展開した。また旭(あさひ)ベンベルグ絹糸(現旭化成)など多数の関連子会社を擁し、日窒(にっちつ)コンツェルンとよばれたが、第二次世界大戦の敗戦で全資産の80%以上の在外資産を失った。1950年(昭和25)水俣工場を復旧し、新日本窒素肥料として再出発、65年チッソと改称した。しかし、水俣工場排液中の有機水銀から漁民を中心に悲惨な水俣病が発生し、深刻な社会問題となった。裁判でチッソ側が敗訴(1973)し、被害者の補償にあたらねばならず、経営は著しく悪化し、1978年に上場資格を失った。ポリプロピレン、塩化ビニル樹脂などを主力製品としているが、水俣病被害者への巨額の補償金支払いのため、国や熊本県の金融支援を受けてきた。資本金78億円(2008)、売上高1844億円(2008)。
[中村青志]
『柴村羊五著『起業の人 野口遵伝』(1981・有斐閣)』▽『原田正純著『水俣病』(岩波新書)』