セタナイ場所(読み)せたないばしよ

日本歴史地名大系 「セタナイ場所」の解説

セタナイ場所
せたないばしよ

西蝦夷地のうち後志利別しりべしとしべつ川の河口域に設定された場所(持場)。天保郷帳に「セタナイ持場之内 セタナイ アブラ」とみえる。北は「チヤラセナイ」を境にスツキ場所、南は「エヘレケノホリ」を境にフトロ場所と接し、場所内の海岸線は五里七丁であった(場所境調書)。後志利別川は板本「東蝦夷日誌」の「山越内領」の項によれば「川下フトロ、セタナイ入組領なる故、セタ内土人等川口に縄を張置、若是に太櫓土人が障る時は償を取し」とフトロ場所との境の川だったとある。河口のセタナイは「湾をなし、船は五百石位迄」入ることができた(板本「西蝦夷日誌」)。「西蝦夷地場所地名等控」によれば、「惣名セタナイ 浜セタナイ」は、ヲウラ・カリバ山・トコマイ・白糸滝・スツキ之崎を含む地とし、スツキ場所の一部である「スツキ之崎」をも含んでいたとする。

一七〇〇年(元禄一三年)頃には「世多奈井鳥屋三ケ所」が松前藩家臣谷梯倉右衛門の支配地であった(支配所持名前帳)。「蝦夷商賈聞書」では八木橋瀬左衛門の支配地で、鯡数子・鱈・鮭・鮫油など海川の産物を年二度、一千五〇〇石ずつ積出した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報