カルポー(英語表記)Jean-Baptiste Carpeaux

デジタル大辞泉 「カルポー」の意味・読み・例文・類語

カルポー(Jean-Baptiste Carpeaux)

[1827~1875]フランス彫刻家古典主義伝統を離れ、躍動的で優美な官能性を備えた作品多数制作した。作、オペラ座正面装飾の「ダンス」など。

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精選版 日本国語大辞典 「カルポー」の意味・読み・例文・類語

カルポー

(Jean Baptiste Carpeaux ジャン=バチスト━) フランスの彫刻家。作品「フローラ」「ダンス」など。(一八二七‐七五

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改訂新版 世界大百科事典 「カルポー」の意味・わかりやすい解説

カルポー
Jean-Baptiste Carpeaux
生没年:1827-75

フランス第二帝政期の代表的な彫刻家。バランシエンヌに生まれ,パリの国立美術学校に学んだのち,ローマ賞(1854)を得て1856-62年イタリアに留学ミケランジェロにもっとも感銘を受け,ローマで《ウゴリーノと子どもたち》(1860-62)を制作。この作品によって63年のサロンに初登場。肖像彫刻を多くつくるかたわら,ルーブル宮殿の〈フローラのパビヨン〉のための《フローラの勝利》(1863-66),オペラ座のための《ダンス》(1869),オプセルバトアールの噴水彫刻《世界の四つの部分》(1867-72)などの記念碑彫刻をつくる。ナポレオン3世の従姉妹マティルダ王女などの庇護のもとで多くの注文を受けたが,典雅な躍動性,生命感を尊重する彼のバロック的・ロココ的作風は必ずしもアカデミーの受け入れるところではなく,〈フローラのパビヨン〉の装飾の際にも,建築の調和を乱すという理由で建築家との対立を引き起こしている。しかし,その動感と印象主義的手法は,やがてロダンに受け継がれ近代彫刻の発端を形成することとなった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カルポー」の意味・わかりやすい解説

カルポー
Carpeaux, Jean-Baptiste

[生]1827.5.11. バランシエンヌ
[没]1875.10.12. クールブボア
フランスの彫刻家。ジュール・カルボーともいう。父は石工。1842年以来パリに住み,1844年にエコール・デ・ボザールに入学,フランソア・リュードのアトリエで学ぶ。1854年『ヘクトル』でローマ大賞を受賞してローマに留学し,ミケランジェロの作品に強い感銘を受けて傑作『ウゴリーノと息子たち』 (1861,オルセー美術館) などを制作。1861年パリに帰り王族や廷臣たちの肖像彫刻を制作,1866年チュイルリー宮殿のパビヨン・ド・フロール装飾の仕事を引き受け,浮彫『フローラ』 (1864,ルーブル美術館) をつくる。パリのオペラ座正面の装飾彫刻『ダンス』 (1865~69,オルセー美術館) は,当時のアカデミックな彫刻家たちから酷評された。その作風は多くの点でオーギュスト・ロダンに受け継がれていくことになる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カルポー」の意味・わかりやすい解説

カルポー
かるぽー
Jean-Baptiste Carpeaux
(1827―1875)

フランスの彫刻家。バランシェンヌに生まれる。パリに出て初めF・リュード、ついでF・J・デュレに学び、優れた技巧を習得した。1854年に『わが子の守護を祈るヘクトル』によってローマ賞を獲得し、イタリアに赴いた。ローマのバチカン宮システィナ礼拝堂でミケランジェロの大作から受けた感銘はきわめて深刻であったという。カルポーがローマのアカデミアに提出した作品のうち『ウゴリーノとその子たち』(1860・ルーブル美術館)はダンテの『神曲・地獄編』から着想されたもので、ローマでは非常な名声を博したが、パリでは不評であった。しかし帰国後は幸運にもナポレオン3世の従姉妹(いとこ)にあたる王女マチルドの庇護(ひご)を受けるようになり、チュイルリー宮のパビヨンの浮彫り『フローラ』(1863~66)やオペラ座正面の『ダンス』(1869)を恵まれた環境のなかで制作した。72年、のちにリュクサンブールの噴水盤になった『世界の四部分』をサロンに出品したが、この年に発病し、3年後に世を去った。

[濱谷勝也]

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百科事典マイペディア 「カルポー」の意味・わかりやすい解説

カルポー

フランス第二帝政期の彫刻家。バラシエンヌ生れ。パリでリュードに学び,1854年―1859年ローマに留学。バロック的な豊かな動感と巧みな表面処理による光と影の効果は後のロダンへの道を開いた。代表作にルーブル宮殿パビヨン・ド・フロールのファサード装飾として制作された《フローラ》(テラコッタ像,1873年,オルセー美術館蔵),《ウゴリーノ》(石膏像,1863年,バランシエンヌ美術館蔵),リュクサンブールの噴水《世界を支える四つの部分》(1867年―1872年)などがある。

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