オランダ医学(読み)おらんだいがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オランダ医学」の意味・わかりやすい解説

オランダ医学
おらんだいがく

江戸時代、オランダ人を通じて伝えられた西洋医学。その内容が主として外科に関するものであったので、オランダ流外科ともよばれる。鎖国令公布(1639)以前には南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)が日本へ渡来して南蛮医学を伝えたが、これも内容的にはオランダ医学と同じである。

 オランダ医学を日本に伝えた主役は、長崎出島のオランダ商館の医師たちであった。1641年(寛永18)にオランダ商館が平戸(ひらど)から出島に移転して以降、約200年間、ほぼ毎年1、2人の医師が来任した。その人数は約63人に達するが、このなかには数年間にわたって在任したり、幾度か来任した医師も少なくない。そして初期のライネケンペル中期ツンベルク後期シーボルト、モーニケらは、とくによく知られている。

 商館の医師の本来の職務は、商館員の健康管理にあり、館外に出て一般日本人を診療したり、交遊することは禁じられていたが、それでもときには公に許可を得て日本人を診療したり、日本人医師たちの質問に答えたりしていた。これがとくに目だつのは、オランダ商館長一行が毎年1回(のちには5年に1回)江戸参府を行ったときで、江戸への道中、あるいは江戸滞在中の旅館で、とくに許されて商館長らの一行と問答を交わした日本人学者は少なくない。このことが蘭学(らんがく)者たちの蘭学に対する関心をいっそう募らせ、ついには新しい知識、なかでも西洋医学の知識を得るために長崎へ赴き、つてを求めて商館の医師に教えを請う者がしだいに増加していった。また商館の医師と面接の機会が多くあったオランダ通詞のなかから医学を志す者も多く生まれた。楢林(ならばやし)流、栗崎(くりさき)流、村山流、桂川(かつらがわ)流、カスパル流、吉雄(よしお)流などはそれである。

 さらに西洋医学を日本に広めた点で無視できないのは、日本・オランダ交渉200年間に日本に輸入された多くのオランダ語医書である。日本最初の西洋医学書の翻訳書『解体新書』の出版(1774)を契機に、オランダ語医書の日本語翻訳は相次いで行われ、これが西洋医学の知識の普及に大きな力を示した。

 明治維新以後、明治政府が医学教育の方針についてドイツ医学を範とすることを定めたため、オランダ医学はその地位をドイツ医学に譲った。

[大鳥蘭三郎]

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旺文社日本史事典 三訂版 「オランダ医学」の解説

オランダ医学
オランダいがく

江戸中期から普及した西洋医学
すでにオランダ通詞らを通じ一部の漢方医の間では関心が高く,18世紀後期の蘭学興隆の推進力となり発達。杉田玄白らの『解体新書』をはじめ生理学・内科・小児科などの翻訳書が出版された。シーボルトの鳴滝塾 (なるたきじゆく) ,緒方洪庵の適々斎塾などの蘭学塾も医学生が多く,有力な蘭方医や学識者を生んだ。

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