百科事典マイペディア 「アンティオコス[3世]」の意味・わかりやすい解説
アンティオコス[3世]【アンティオコス】
→関連項目スキピオ[大]
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[歴史]
セレウコス1世はアレクサンドロス大王の死後バビロニアの総督となり,前312年地歩を確立(セレウコス朝暦第1年),大王の後継者たち(ディアドコイ)の争いの渦中で勢力を拡大し,西は小アジアから東はインド国境におよぶ広大な領土を獲得した。しかし,その後はたび重なる戦争(とくにプトレマイオス朝とのシリア戦争),王家内部の紛争,王国内各地の離反独立(ペルガモン,パルティア,バクトリアなど)によって弱体化し,アンティオコス3世(在位,前223‐前187)のとき,内政改革と再征服遠征によって一時的に衰勢をたてなおし大版図を回復したが,東地中海に力を伸ばしたローマに敗れて頓挫し,アンティオコス4世(在位,前175‐前164か163)の膨張政策と国内改革も,ローマの介入やユダヤの反乱などによって挫折を余儀なくされた。前160年にはパルティアの勢力拡大に屈してイラン西部を併合され,前129年にはメソポタミアとユダヤを最後的に失って,王国は北シリアと東キリキアのみに縮小,その後は一段と混迷を深め,前64年ポンペイウスによってローマに併合され滅亡した。…
…前214‐前205),これを制し,マケドニアの勢力回復におびえたロドスとペルガモンの求めに応じてローマは第2次マケドニア戦争(前200‐前196)に踏み切り,将軍フラミニヌスはテルモピュライでマケドニア軍を破った。続いて,ハンニバルがそのもとに亡命していたシリア王国のアンティオコス3世と戦争に入り(前192‐前189),これをマグネシアの地で破った。この戦争でローマは初めてアシア(小アジア)に軍を進めたが,戦後処理においては領土的関心を示さず,シリアの領有した小アジアの領土はすべてペルガモンとロドスに与えられた。…
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