鹿ヶ谷村(読み)ししがだにむら

日本歴史地名大系 「鹿ヶ谷村」の解説

鹿ヶ谷村
ししがだにむら

[現在地名]左京区鹿ヶ谷〈上宮かみみやまえ町・栗木谷くりきだに町・御所ごしよだん町・桜谷さくらだに町・下宮しもみやまえ町・菖蒲谷しようぶだに町・善気山ぜんきさん町・大黒谷だいこくだに町・高岸たかぎし町・多頂山たちようさん町・てらまえ町・徳善谷とくぜんだに町・西寺にしてらまえ町・若王子山にやくおうじやま町・不動山ふどうやま町・法然院ほうねんいん町・法然院西町ほうねんいんにしまちみやまえ町〉・若王子にやくおうじ

浄土寺じようどじ村と南禅寺門前なんぜんじもんぜんの間に位置し、東に如意によいたけを負い、西は吉田神楽岡よしだかぐらおか白川を隔て接する。鹿ノ谷とも記され、村名はかつて智証大師(円珍)がこの地を遊観した際、一頭の鹿が現れ、円珍を導いてこの辺りを案内したことによるという(京都府地誌)。古くは上粟田かみあわた(和名抄)に属し、北白川と一体となっていたが、のち分れて鹿ヶ谷村を形成した。

中世には貴紳山荘・寺院が営まれ、なかでも安元三年(一一七七)六月に、平家打倒の陰謀を企てた法勝ほつしよう寺執行俊寛の山荘は「平家物語」巻一に「東山のふもと鹿の谷と云所は、うしろ三井寺につゞいてゆゝしき城にてぞありける」と記され、「源平盛衰記」巻三には「東山鹿ノ谷と云ふ所は法勝寺ノ執行俊寛僧都が領也」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報