鳴滝村(読み)なるたきむら

日本歴史地名大系 「鳴滝村」の解説

鳴滝村
なるたきむら

[現在地名]右京区鳴滝〈泉谷いずみたに町・泉殿いずみでん町・宇多野谷うだのたに音戸山おんどやま町・川西かわにし町・きりふち町・嵯峨園さがその町・白砂しらすな宅間たくま町・中道なかみち町・西嵯峨園にしさがその町・蓮池はすいけ町・春木はるき町・般若寺はんにやじ町・ふじ町・本町ほんまち松本まつもと町・瑞穂みずほ町・安井殿やすいでん町・蓮華寺れんげじ町〉・音戸山山おんどやまやま茶屋ちやや

北は鷹ヶ峰たかがみね(現北区)、西は御室おむろ(鳴滝川)支流高鼻谷たかはなたに(高鼻川)から音戸山をもって平岡ひらおか村と、南は太秦うずまさ常盤ときわ村、東は福王子ふくおうじ村、北東は大内おおうち山の背後で御室門前村と接する。北西から東南に村の中央を御室川が貫流し、ほぼ川に沿って東西に一条街道(現周山街道)が走る。北奥地にさわ(五一五・九メートル)があり、その西麓沢ノ池の水は中川村(現北区)に流れる。

古代は「和名抄」の田邑たむら郷の中心に位置し、南北長尾ながお保に分れていたらしい。鳴滝の名は「扶桑略記」延喜二年(九〇二)六月一七日の記録に「依祈雨、定山陵使、又依同事、召陰陽寮、自今明日、於乾方、可五竜祭之由仰下了、其地鳴滝北十二月谷口」とあるのが早い。

鳴滝村
なるたきむら

[現在地名]青谷町鳴滝

北河原きたがわら村の南、勝部かちべ谷の中央部に位置し、本村は勝部川左岸、枝郷の神前かんざきは同右岸のそれぞれ山麓に位置する。拝領高は一〇九石余、本免は四ツ九分。藪役銀四四匁四分五厘が課せられ(藩史)、山脇氏・羽原氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数三五。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高一一五石余、竈数二六。河原かわら村・山根やまね村で漉いていた御用紙に用いる楮の産地であったため、年貢の一部は楮請米として翌年五月までの延納が認められていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報