鳥取城跡(読み)とつとりじようあと

日本歴史地名大系 「鳥取城跡」の解説

鳥取城跡
とつとりじようあと

[現在地名]鳥取市東町一―二丁目・栗谷町・百谷など

鳥取市北東の丘陵部にある一六世紀半ばの天文年間(一五三二―五五)より明治維新に至る久松きゆうしよう山を中心とした山城。久松山は標高二六三・一メートルの花崗岩よりなる独立峰で、山頂には中世の城郭遺構である山上さんじようの丸、山麓には慶長年間(一五九六―一六一五)より明治に至るまでの間に整備された二の丸・天球てんきゆう丸・三の丸などの遺構を残す。東方の太閤たいこなるを付し国指定史跡となっている。また自然がよく保存されており、山麓に生息するシジミチョウ科のキマダラルリツバメは県の天然記念物、一帯はキマダラルリツバメ生息地として国の天然記念物に指定されている。

〔築城〕

天文年間布施天神山ふせてんじんやま城に拠る因幡山名氏と但馬山名氏の争乱のなかで築城されたとする説が一般に認められているが、そのどちらが実際に城を築いたかについては見解が分れる。従来は「因幡民談記」の記述から、天文一四年布施屋形山名誠通が但馬の勢力を防ぐために出城として築き、家臣が交替で城番を勤めていたと考えられていた。同書には「当地天神山ノ城郭ハ、山上ヒキクシテ平城ノ如シ」であるので「所詮此城ノ近辺ニ出城ヲ拵ヘ定番ヲ置、敵寄来ラバ急ギ布施ヘ注進シ、或ハ鳥取ニテ是ヲ支ヘ、或ハ千代川ニテ是ヲ防ギナバ、敵争デカ寄来ルベキ」と考え、「天文十四乙巳ノ年二月半ニ鍬始有テ、邑美郡鳥取ノ郷久松ノ城ヲ取立ラルヽ」とあり、「其大将ハ家ノ長臣替ル替ルツトメシガ、後ニハ武田豊前守定番トシテ在城セリ」という。しかしこの記述には根拠が示されていないため、他の史料と併せて検討のうえ、但馬系山名氏勢力により、布施屋形(天神山城)に対する戦略的拠点として久松山麓にまず築かれたのではないかという説が唱えられた。この説では、鳥取城の名を史料上初めて確認できる天文一四年四月一六日付の中村伊豆守宛の山名久通書状(中村文書)に「新山定番之儀、鳥取一途之間人数以廿人可致在城之由申候者」とあるのを、山名久通が鳥取城を攻撃する間、その重臣中村伊豆守の新山定番を賞するものと解し、この時点で鳥取城はすでに但馬系山名氏勢力下にあったとする。山名久通は同二年以前は但馬守護山名誠豊から一字を与えられて誠通と名乗っており、但馬山名氏の援護により因幡山名氏の家督を継ぎ因幡守護に任じられていた。だがその後但馬山名氏から離れて出雲尼子氏の支援を受け、尼子経久・晴久らの名から一字をとり久通と改称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「鳥取城跡」の解説

とっとりじょうあと【鳥取城跡】


鳥取県鳥取市東町にある中世の山城跡。指定名称は「鳥取城 附太閤ヶ平(つけたりたいこうがなる)」。鳥取市街からみるとひときわ険峻さの目立つ久松山(きゅうしょうざん)(標高263m)の全域に立地し、山頂を中心とする中世の山城跡と、戦国期から近世にかけて拡大された山麓の城跡からなる。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残り、復元された城門がある。1957年(昭和32)に国の史跡に指定されたが、あわせて指定された太閤ヶ平は市内百谷にあり、鳥取城本丸から1.4km東の帝釈山頂にある羽柴秀吉の鳥取城攻めのさいの本陣跡である。城は1545年(天文14)、因幡守護・山名誠通(のぶみち)が守護所としていた居城、天神山城の出城として築城したとされるが、当時は因幡山名氏と但馬山名氏との内紛が続いており、但馬山名氏による築城という見解もある。1573年(天正1)、山名豊国が天神山城の3層天守を移したという。戦国時代には後に「鳥取城渇(かつ)え殺し」と呼ばれた、秀吉による鳥取城攻撃の舞台となった。1581年(天正9)、秀吉は商船を因幡へ送り込んで米を高値で買い占めるとともに、2万ともいわれる侵攻軍の包囲によって鳥取城の糧道を断ち、毛利方から城主として送りこまれていた吉川経家(きっかわつねいえ)は4ヵ月の籠城の末、ついに降伏、自刃した。江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備された。JR山陰本線ほか鳥取駅から車で約12分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報