高瀬庄(読み)たかせのしよう

日本歴史地名大系 「高瀬庄」の解説

高瀬庄
たかせのしよう

八乙女やおとめ山北西麓、現井波町の高瀬神社を含む東大谷ひがしおおたに(大門川)流域を中心とする一帯に比定される皇室領庄園。領家職・地頭職ともに南北朝初期に奈良東大寺に寄進されているが、それ以前は不明。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(高山寺蔵山科家古文書)安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)領として「越中国高瀬・日置」とあり、嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)にも安楽寿院領として当庄がみえる。文治二年(一一八六)一月一一日、朝廷からの地頭職廃止などの要求に対して、北条時政は狼藉停止には応ずるものの地頭職廃止については拒否している(吾妻鏡)。正応二年(一二八九)に定められた康永三年(一三四四)二月日の高瀬庄田地目録(東大寺文書、以下同文書は省略)によれば、総田数一二六町四反三〇歩、うち八七町一反一八〇歩は神田・寺田・地頭給・公文給などの除田、残る三九町二反二一〇歩が定田で、定田は二〇余名に分けられていた。除田のうちの三三町の神田は高瀬神社のものであろう。荒地とされるのは一町二反一九〇歩、「不知下地」など荒に準ずる除田は三町八反五〇歩。また下地中分によって領家方は直営地を含めておよそ二二町、地頭方がおよそ七町余となっていたが、ほかにも領家方年貢を地頭が徴収した分が一〇町六反一六〇歩あった。

足利尊氏は建武年間(一三三四―三八)に当庄領家職を東大寺八幡宮に寄進し(康永三年二月二八日東大寺年預五師円英書状案)、続いて康永元年一二月一五日に当庄地頭職を周防国大前おおさき(現山口県防府市)の替所として同宮に寄進している(足利尊氏寄進状)東大寺領として引継がれた田数等は正応二年目録のとおりである。こうして地頭方が東大寺八幡宮の日次御供所に、領家方が学侶・宿老中の伝灯料、学侶衣服料等の料所となったが、その年貢徴収などについては康永二年八月に高瀬庄納帳が作成されている。それを集計した同三年七月二日の年貢結解状によれば、年貢三五貫九八七文のうち年預・年預小綱得分がそれぞれ一貫文と五〇〇文である。残り三四貫四八七文のうちの半分の一七貫二四四文が年預五師と称される学侶頭五人の宿老分伝灯料で、その残りの一七貫二四三文が学生供一〇〇口分衣服料とされている。夫役により京上される年貢は分納されており、同二年一一月末には二〇貫文が、五師・学生に各一〇貫文ずつ納入され、同三年一月三〇日には一貫文は年預に、五〇〇文は年預小綱に、三貫一三九文は五師に、残りは学生口分とされ、都合七貫七七九文が納入されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報