高平村(読み)たかひらむら

日本歴史地名大系 「高平村」の解説

高平村
たかひらむら

[現在地名]原町市上高平かみたかひら下高平しもたかひら

南東流から東に流れを変える新田にいだ川の北岸に位置し、対岸南新田村桜井さくらい村・上渋佐かみしぶさ村。北に枝郷北高平村があり、西は南北に走る浜街道を境に北新田村に接する。天保郷帳には「古者 高平村・北高平村・植松新田三ケ村」と注記され、天保一三年(一八四二)高平村は上・下に分村したという(奥相志)

文永九年(一二七二)一〇月二九日の関東下知状(相馬文書)に「可令早平 丸領知陸奥国行方郡高平并鷹倉狩倉事」とみえる。相馬系図(歓喜寺蔵)などによると、相馬胤村の死後、未処分であった高平村は胤村の四男有胤に配分され、同下知状によって有胤に安堵された。なお永仁二年(一二九四)の相馬氏配分系図(相馬文書)によると、有胤は胤村の遺領のうち二八町八段九合を配分されている。

高平村
たかひらむら

[現在地名]白沢村高平

上古語父かみここぶ村の東、沼田盆地の東端に位置する。上古語父村からきた会津街道は当地で二筋に分れ、一は北東方白沢川の上流栗生くりう峠を越え、一は東の生枝なまえ村に向かう。曹洞宗雲谷うんこく寺があり、旧蔵の文明五年(一四七三)の鐘銘に「上州利根庄高平山雲谷禅寺」とみえる。「加沢記」に「雲(谷)寺と申は元徳三年大師和尚薩摩国より下り開基し給て保鷹山と号無双の霊域也、薩州雲祥寺の末寺也、近代に至て慈眼山舒林寺の末寺なり」とみえるほか、同書や「沼田根元記」に散見、天正三年(一五七五)には真田昌幸が宿陣している。また「加沢記」に載せる同八年二月四日の真田昌幸書状によると「高平之内雲国寺并門前屋敷」が和田わだ屋敷(現沼田市)の住僧に宛行われている。

高平村
たかひらむら

[現在地名]佐賀市巨勢町こせまち大字修理田しゆりた

長崎街道と蓮池はすのいけ往還の間、高尾たかお村・平尾ひらお村・柳原やなぎはら村の南にある東西に長い村。東分ひがしぶん西分にしぶんに分れた低平な水田地帯で、西分・東分・角町つのまちなど堀に沿ったり囲まれたりしている集落である。正保絵図に村名がみえる。

寛政元年(一七八九)の巡見録によれば石高四二四石四斗一升、家数四〇軒とある。佐賀本藩の蔵入地。庄屋の惣左衛門は巡見使から一里塚いちりづか橋の西南水車で水を入れて水田をかきならしているのを「あれハ田を鋤か」と尋ねられ、「一反五、六人手間相懸」と答え、巡見使は「きつい難儀を致すこと」と同情を寄せている。

高平村
たかひらむら

[現在地名]熊本市清水しみず町高平

南流する坪井つぼい川右岸の丘陵地斜面にあり、東は高平打出たかひらうちだし村、南は打越うちごし村に接する。「国誌」に「里俗高平本村ト云」とあり、慶長年間(一五九六―一六一五)には一村であったが、その後当村と高平打出村高平下村に分れた。慶長九年九月の検地帳では田方二二町余・畠方二一町四反余、分米四一〇石二斗余。同一三年の検地帳では給人加藤右馬亮の分として田方七町六反余・九七石八斗余、畠方一六町余・一一六石三斗余、給人江村宗具の分として田方八町二反余・一〇四石三斗余、畠方二反余・九石五斗余がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報