高山庄(読み)たかやまのしよう

日本歴史地名大系 「高山庄」の解説

高山庄
たかやまのしよう

現在の高山の地にあった庄園。寛喜二年(一二三〇)閏正月二七日の勝尾寺四至注文(勝尾寺文書、以下同文書により、必要に応じ個別文書名を記す)に「北限高山堺」、あるいは「戌亥高山・真川原両堺」などとみえるのが地名の初見。当庄成立時期について、元弘三年(一三三三)一二月一八日の雑訴決断所評定文案などには、外院げいん美河原みがわら両庄(現箕面市)とともに天治二年(一一二五)七月に摂津国司の免判によって総持そうじ(現茨木市)領となり、嘉応元年(一一六九)一一月二八日にこの三ヵ庄を総持寺領とする旨の官宣旨が下ったとある。ところが総持寺は比叡山延暦寺末の浄土寺門跡領であったため、これら三ヵ庄は浄土寺門跡領となり、総持寺が現地の管理支配にあたった。

やがて鎌倉中期に浄土寺門跡が勝尾かつお(現箕面市)へ仏名用途として当庄の年貢のうち七斗を寄進したのを契機に、勝尾寺の支配が及び始めるが、当庄の庄民は勝尾寺への納入を渋り、文応元年(一二六〇)頃には仏名用途七斗のうち五斗を滞納する有様となったので、勝尾寺衆徒は浄土寺門跡へ訴状を送り未進なく納入するよう訴えている(同年一一月日勝尾寺衆徒等訴状案)。その後、鎌倉末まで勝尾寺と当庄の雑掌との相論が続くが、正安元年(一二九九)一二月一四日、浄土寺門跡が勝尾寺の主張を認めて、所定の上分米を雑掌の責任で勝尾寺に納入するよう命じた御教書を出すに至って一応の解決をみた。しかし勝尾寺は後醍醐天皇の親政が始まると、正中元年(一三二四)に高山庄以下三ヵ庄に対する領主権そのものを主張して記録所に提訴するとともに、寺僧を派遣して現地支配を謀る挙に出たため、浄土寺との相論が激しく展開されるに至った。勝尾寺の領主権主張の根拠は、貞観五年(八六三)三月一〇日の宣旨によって、この三ヵ庄を寄進されたという点にあった(嘉暦三年八月日勝尾寺住侶等訴状案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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