高山別院照蓮寺(読み)たかやまべついんしようれんじ

日本歴史地名大系 「高山別院照蓮寺」の解説

高山別院照蓮寺
たかやまべついんしようれんじ

[現在地名]高山市鉄砲町

江名子えなこ川の左岸、安川やすかわ通北側に南面して位置する。光曜山と号し、真宗大谷派別院。本尊阿弥陀如来。

開基は親鸞の弟子嘉念坊善俊で、もとは大野郡白川しらかわ海塩かいえん(現荘川村海上)にあり同地を飛騨における真宗発祥の地とする。嘉念坊の出自については、越後高田浄興たかたじようこう(現新潟県上越市)善性の第二子説、善性・善俊兄弟説ほか、古来諸説がある。善俊は承久三年(一二二一)八歳のとき近江国園城おんじよう寺で出家して道尹と称した。寛喜三年(一二三一)東国より帰洛の途にあった親鸞に箱根であって弟子となり、嘉念坊善俊と改めた(「嘉念坊御命日記」寺蔵)。その後美濃国郡上ぐじよう白鳥しろとり(現白鳥町)で民衆の教化に努めたが(岷江記)、そのなかに千葉小次郎成正がいた。成正は下総権介千葉常胤の孫と伝え、戦乱の世に無情を感じ道を求めて諸国を巡り、海塩で帰農したという。成正は善俊の弟子となって浄正と名乗り師の白川巡錫を懇願、善俊は宝治年間(一二四七―四九)浄正の館で教化に努め、のち鳩谷はとがや(現大野郡白川村)に道場一宇を建てて真宗の教線拡大に努力し、同地で没したと伝える(「中野心行坊伝記」「願生寺由来記」など)

八世明誓の一五世紀後半頃には正蓮しようれん寺と号し、本願寺の地方寺院のなかでも有力な存在であった(石山本願寺日記・岷江記)。当時白川郷向牧戸むかいまきど(現荘川村)に拠った内ヶ島為氏にとって白川善俊門徒は脅威となり、為氏は帰雲かえりくも(現白川村)を築いて正蓮寺攻略の拠点とし、一方正蓮寺も明誓の長子教信が寺務を弟の明教に譲り、還俗して三島将監教信と名乗って兵を養った。文明七年(一四七五)頃内ヶ島為氏は、当時下白川郷飯島いいじま(現白川村)にあった正蓮寺を襲い、寺側の猛反撃にあって越中国礪波となみに敗走した。同年秋内ヶ島氏は越中守護畠山氏の支援を得て再び正蓮寺を攻め、教信・明教の兄弟を破り堂宇をことごとく焼払った。教信は逃亡、明教は自刃したため正蓮寺は一時廃絶することとなった(岷江記)。明教の遺児亀寿丸は母の里方である越前国に隠れ住んだという。その後本願寺実如の下で得度し、名を明心と改めた亀寿丸は正蓮寺の再興にあたることになり、文亀元年(一五〇一)蓮如・実如の計らいによって内ヶ島氏と和睦し、内ヶ島雅氏の娘大岡姫を迎えた(岷江記)

一〇世明心は寺地を飯島村の旧地から上白川郷中野なかの(現荘川村)に移し、正蓮寺を照蓮寺と改め、永正元年(一五〇四)八間四面の新御堂の再建がなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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