高家庄(読み)たいえのしよう

日本歴史地名大系 「高家庄」の解説

高家庄
たいえのしよう

和名抄」にみえる古代の宍粟郡高家郷の郷名を継承した庄園。「たかや」とも称されたと考えられる。保延四年(一一三八)一月二三日、播磨国の在庁官人桑原貞助が一日頓写経の事業を遂行し、この時の大般若経巻三五三(守屋氏蔵)の奥書に「主筆宍粟高家郷光明寺住僧永順」とあり、この頃は立庄されていなかった。光明こうみよう寺は現山崎町中野なかのに現存する浄土宗光明庵とかかわりがあるか。桑原氏は鳥羽院の近臣源師行と接触があったが、師行による田原たわら(現福崎町)立券は保延七年のことで(同年六月二三日「鳥羽院庁下文案」九条家文書)、この頃に同じように鳥羽院を本家と仰ぐ高家庄が成立したのかもしれない。

天福元年(一二三三)と推定される七月一日の天台座主尊性法親王書状(真経寺所蔵法華経紙背文書)柏野かしわの庄とともに安嘉門院領としてみえ、尊性は宮中に対して両庄への国衙使者の入部停止を求めている。同年とみられる九月八日、尊性は惣検注使下向にあたり両庄安堵の院宣を与えられるよう申請した(「尊性法親王書状」同文書)。尊性は後高倉院守貞親王の皇子で、後堀河天皇と安嘉門院邦子の兄にあたり、柏野庄の知行権をも有していたらしい。安嘉門院領はかつての八条院領で、同院領は承久の乱後に鎌倉幕府が没収したが、乱にくみしなかった後高倉院に還付され、安嘉門院がこれを譲り受けた。八条院領は承久の乱の没収地であるため、幕府がその進止権を握っていた。弘安六年(一二八三)に安嘉門院が死去すると、所領の多くは亀山上皇の手に渡ったようだが、幕府は一部所領の伝領を認めず、宍粟郡の中枢地である高家庄・柏野庄はしばらく関東御領にとどめられた。

高家庄
たいえのしよう

日高郡の北西部を南流する西にし川の上・中流域にあった荘園で、立荘の経緯などについては不詳。「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月一九日条に「昼養所真如院大家庄司高大夫仮屋也」とあり、大家(高家)庄は真如しんによ院領で、荘司として高大夫なる者がいたことが知られる。この真如院は園城おんじよう寺の末寺と推定される。寿永二年(一一八三)閏一〇月六日の後白河院庁下文写(崇福寺蔵墨跡写四六、寛永一九年冊所収)によれば、左少将藤原実明が高家庄の預職に補されており、院領の地域も成立していたことがわかる。次いで同三年八月二六日の後白河上皇院宣写(天理図書館蔵吉田宮文書)では「一院御領」として名がみえ、崇徳上皇を祀った京都粟田宮の一円神領として寄進されているが、その後の推移は不詳。

文治三年(一一八七)真如院からの押妨があり、高家庄は後白河院に訴えた。この相論は、真如院の本寺と思われる園城寺の長吏公顕が、「田三十町・畠廿町外、真如院不可領知」との請文を差出すことで解決した(同年九月一四日「後白河法皇院宣」・暦応四年六月二三日「光厳院院宣」大徳寺文書)。「後鳥羽院熊野御幸記」の建仁元年(一二〇一)一〇月一〇日条に、「高家云々、聖護院宮并民部卿領云々」とあり、真如院領は園城寺門跡聖護院宮静恵法親王(後白河天皇息)領となっている。

嘉暦二年(一三二七)五辻宮守良親王(亀山天皇息)より高家東庄が京都大徳寺に寄進され(貞和五年三月一四日「光厳上皇宣旨」大徳寺文書)、翌三年五月一六日の後醍醐天皇綸旨(同文書)で安堵されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報