駄原村(読み)だのはるむら

日本歴史地名大系 「駄原村」の解説

駄原村
だのはるむら

[現在地名]大分市新町しんまち中春日町なかかすがまち南春日町みなみかすがまち西春日町にしかすがまち東春日町ひがしかすがまち新春日町しんかすがまち一―二丁目・王子北町おうじきたまち王子中町おうじなかまち王子南町おうじみなみまち王子西町おうじにしまち王子町おうじまち王子新町おうじしんまち王子港町おうじみなとまち田室町たむろまち・駄原

府内城下の西方に位置し、北は勢家せいけ町、東は毘沙門びしやもん川。北部に集落、西部には丘陵地帯がある。府内城北西の堀川口ほりかわぐち門から西に進む豊前道が、住吉すみよし川に架かる仙石せんごく橋を渡って勢家町を通り当村に入る。永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(大友文書)に「同国駄原村」とあり、大友親世が地頭職をもっていた。しかし、貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職等注進状案(同文書)には当村が記載されていないことから考察すれば、大友氏継か親世の時代に大友惣領家領となったのであろう。また、応永二四年(一四一七)九月二六日、沙弥良忠が重代相伝の私領である駄原村のうち田地二段、のちの承仕田と号する地を眼病平癒祈願として由原ゆすはら宮に寄進した。なお寄進状は、良忠が眼病のため嫡子藤原親村が代理として作成している(「沙弥良忠寄進状」柞原八幡宮文書)

駄原村
だばるむら

[現在地名]阿蘇町三久保みくぼ

西は折戸おりど村、東は内牧うちのまき村と接する。近世内牧手永に属し、「国誌」に「新地高初ハ宇土村ト云シ歟」とある。天保九年(一八三八)の村々調では宇土うと村とあり、田畑三町八反、高二九石三斗・御出物成約七石、竈数六・人口二六、牛九・馬三一である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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