青屋村(読み)あおやむら

日本歴史地名大系 「青屋村」の解説

青屋村
あおやむら

[現在地名]青谷町青谷

現青谷町北部中央、勝部かちべ(青屋川)下流西岸に位置し、東方対岸は潮津うしおづ村、西は井手いで村、南は苔川こけがわ村で、北は日本海に臨む。青谷とも記し、伯耆街道が通る。当村・潮津村、それに潮津村の北西に接する蘆崎あしざき村を併せた三ヵ村の集落は一続きの町場を形成、安永二年(一七七三)の伯路記草稿(県立図書館蔵)に「此三ケ村ヲ一ツ所ニシテ総名ヲ青屋ノ庄ト申ス」とあるように、この一続きの町場を称して青屋ともよび、伯耆街道の青屋宿は潮津村地内、鳥取藩の青屋御蔵は蘆崎村地内に設けられていた。天保一四年(一八四三)鳥取城下商人が在中へ商いに出ることを差止められた折、「青屋」が「格別之場所柄」とのことで領内の他の繁華な宿町などとともに除かれているが(在方諸事控)、これも青屋の町場のことを示していると思われる。

青屋村
あおやむら

[現在地名]朝日村青屋

六方ろつぽう(一四〇三メートル)の麓にあり、青屋川沿岸に集落が点在する。中世、徒歩の場合奥山中おくさんちゆう(現高根村)への近道として見座みざ村から飛騨川右岸沿いに立岩たていわ村の桑野くわのへ上り、当村の橋戸はしどに下って青屋川左岸に移り、九蔵くぞうから石仏いしぼとけ峠を越えて寺付てらづき村に出る。鎌倉街道とよばれ、橋戸の柳瀬やなぜ谷の橋は郷内通路として国中余荷普請所(清水口文書)。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえる(→小谷村。元禄検地反歩帳の高三九石余、田二町四反余・畑九町五反余。「飛騨国中案内」の免は七割八厘、家数五〇、うち百姓四四・門屋五・寺一。寛政一二年(一八〇〇)の田一四石余・畑五六石余、うち新田高二八石余、反別田三町八反余・畑三三町二反余、家数三九・人数二四八、牛五・馬五四、猟師鉄砲九、常照じようしよう(村明細帳)

青屋村
あおやむら

[現在地名]浜松市青屋町・飯田町いいだちよう

上飯田かみいいだ村の北に位置。上青屋・中青屋・下青屋の三集落が北東から南西に向けて並ぶ。上青屋は龍光りゆうこう村の北、中青屋は長鶴ながつる村の北西、下青屋は上飯田村の北にあたる。青谷とも記された。松平忠頼領郷村帳に村名がみえ高一四〇石余、田三町八反余・畑一三町一反余。また青屋新田として高八石余、畑一町三反余。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳には「あをや村」とみえ、高一四〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報