雑賀町(読み)さいかまち

日本歴史地名大系 「雑賀町」の解説

雑賀町
さいかまち

[現在地名]松江市雑賀町など

たて町の南東に位置する足軽町。北は松江分、東は津田つだ村、南は床几しようぎ山を境に乃木のぎ村。鉄砲てつぽう町ともよばれた。「雲陽大数録」によると、寛永一五年(一六三八)頃までは春日かすが村・国屋くや村に足軽町があったといわれ、「京極氏古絵図ニモ、右両所ニモ、大分ノ人家有之、正説ト見ヘタリ、殊ニ此絵図鉄砲町山根ヘ五町ツキツメナリ、両所ノ足軽今ノ鉄砲町ヘ移ルト見ヘタリ」と記される。堀尾時代城下図では町屋風の東西に長い屋敷区画が広がっており、下級藩士の屋敷地であった可能性がある。この地は松江藩主松平氏の時代には足軽町となり(「享保頃雑賀町古絵図」松江市誌)、足軽屋敷は南北に長くなっていることからも、松江築城当初から足軽屋敷があったかには疑問が残る。

雑賀町
さいかまち

[現在地名]新宮市しん町一―二丁目・下本しもほん町一―二丁目・ふな町三丁目

元鍛冶もとかじ町東の通りと、よこ町東の南北の通りに沿った鉤状の町。「新宮領分見聞記」には「川原上り立より横町の辻迄」とある。江戸時代初期頃の新宮古図(新宮木材協同組合蔵)は「カジ町」の東に細工さいく町と記し、東西五九間で付近に町家が記されている。慶長年間(一五九六―一六一五)新宮城主浅野忠吉が魚座を認め、雑賀(現和歌山市)漁夫が移住するようになって以来雑賀町と称したという。魚座を許可した、当町庄屋源次郎太夫宛の町奉行の定書(「新宮市誌」所収)に「雑賀町北南一筋の儀は、肴を売買被仰付候間、脇町にて肴売申者有之儀者屹度町奉行迄可申上候、朝暮雑賀町のものをして吟味可仕候、但三輪崎女の持売に参り候者は売らせ可申候」とあり、魚商人を集住させ、三輪崎みわさきの女行商人を除いて雑賀町以外での魚類の売買を禁止している。

雑賀町
さいかまち

[現在地名]和歌山市雑賀町

きよう橋より東へ延びるほり川沿いの片側町であるが、米屋こめや町の東側の縦町も町域に含み、これを南雑賀みなみさいか町ともいう(寛政城下町絵図)。「続風土記」は「天正の比、雑賀孫市此地に住す、故に名つくといふ」と記す。元禄一三年(一七〇〇)の和歌山城下町絵図では、南雑賀町の東裏に水野安房守の上屋敷を描く。明治以降は旧水野屋敷も町内に含めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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