陳維崧(読み)ちんいすう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陳維崧」の意味・わかりやすい解説

陳維崧
ちんいすう
Chen Wei-song

[生]天啓5(1625)
[没]康煕21(1682)
中国,清初の文人江蘇省宜興の人。字,其年。号,迦陵 (かりょう) 。 17歳で諸生となり,54歳で博学鴻詞に推薦され,第1等で及第して翰林院検討となり『明史』の編纂にあたった。諸生のうちから文名が高く,王士禎,施閏章らと交わり,各地を遊歴して詩社を訪れ詩作を続けた。駢文 (べんぶん) では,清初の第一人者でその後の流行のさきがけとなり,蘇軾辛棄疾の豪放派を宗として陽羨詞派を開き,浙西詞派を率いた朱彝尊 (しゅいそん) と並び称された。2人の詞を合刻した『朱陳村詞』は広く流行して清朝詞壇に大きな影響を与えた。作品はすべて『湖海楼全集』に収められている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「陳維崧」の意味・わかりやすい解説

陳維崧
ちんいすう
(1626―1682)

中国、明(みん)末清(しん)初の文人。字(あざな)は其年(きねん)。号は迦陵(かりょう)。江蘇(こうそ)省宜興(ぎこう)の人。明末四公子の1人である陳貞慧(ていけい)の子。清朝に仕えず、詞(し)や文の名手として知られたが、1678年(康煕17)博学鴻詞(こうし)科の召しに応じて翰林院(かんりんいん)に入り『明史』の編纂(へんさん)に加わった。清朝に入って復活した駢文(べんぶん)の最初の作家とされ、同じく清初に復活した詞(詩余)の作家としても、朱彝尊(しゅいそん)とともに「朱陳」と並称され、朱が南宋婉約(なんそうえんやく)派の詞風を重んじ浙西(せっせい)派の風を開いたのに対して、陳は北宋豪放派を宗とし、陽羨(ようせん)派の祖とされる。『陳迦陵詩文詞集』などがある。

[伊藤虎丸]

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