間人村(読み)たいざむら

日本歴史地名大系 「間人村」の解説

間人村
たいざむら

[現在地名]丹後町間人

対座(一色軍記)とも書かれ、地元では「たいじゃ」といいならわす。竹野川の河口近い左岸に位置し、南は大山おおやま村、北および西は日本海に面する。古くから港が開かれ、丹後海岸の海上交通の中心であった。また漁業が古くから発達した所としても知られる。村から東へ向かう伊根街道、南へ向かう間人街道の起点である。

古代は間人郷(和名抄)の地。慶長検地郷村帳に高四八一・九八石「間人村」と出る。「間人村之内大間村」の注記がみえるが、幕末まで大間おおま村が独立して高付されることはなかった。延宝九年(一六八一)の延高で七七二石余と増加(元和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、同九年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領と変遷

地名由来について「丹哥府志」は「聖徳太子の母を穴穂部間人媛といふ。丹後旧事記云、此里と間人媛の由縁ありよつて以て村名とす、今タイザとよむ。或云。間人媛は此村の人なり、蓋御所の壺は其跡なりといふ」と記す。また間人村濫觴記録(「竹野郡誌」所引)は、間人村の地はもと大浜の里と称したが、聖徳太子の母間人はしうと皇后蘇我馬子物部守屋の争いを避けてこの地に隠れた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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