長沢保(読み)ながさわほ

日本歴史地名大系 「長沢保」の解説

長沢保
ながさわほ

井田いだ川支流の山田やまだ川の左岸に位置し、黒河くろかわ(現小杉町)から八尾やつお方面への交通の要衝の地。古代以来婦負郡の行政上の中核地域であったと思われる。貞治五年(一三六六)一二月二二日の足利義詮袖判下文(佐野文書)によれば、「長沢保内円覚寺村」などが佐野新左衛門尉秀綱法師(法名道悟)に宛行われた。翌年二月五日、すでに幕府から追討されていた前越中守護斯波義将が、後任守護桃井直信方の在国守護代と思われる某伊予守(源□清か)に同所などを佐野氏に打渡すように依頼している(「斯波義将書状」同文書)。佐野氏は斯波方に近い人物なのであろう。このように長沢は元来国衙領であったが、南北朝期の越中政情変遷の影響を受けて武家領化している。明徳二年(一三九一)九月二八日書改の西大寺諸国末寺帳(西大寺二聖院文書)によれば、その四室末として「長沢弘正院」があげられている。叡尊像胎内納入弘安三年(一二八〇)九月一〇日の「授菩薩戒弟子交名」に比丘衆として記載されている明印房正円は、「西大寺光明真言過去帳」により同院開創者であることが知られる。以下過去帳には弘正院(寺)住侶の記録が応永二二年(一四一五)二月二九日に没した心月房まで載せられている。

建武二年(一三三五)七月、中先代の乱に呼応して蜂起した名越太郎時兼に「野尻井口・長沢・倉満ノ者共」が応じている(「太平記」巻一三)。同年一一月二七日越中衆「井上・野尻・長沢・波多野ノ者共」は、今度は足利尊氏の御教書を掲げ、越中の新守護普門蔵人利清に率いられて挙兵し、能越国境の石動せきどう山に立籠った越中国司中院定清を討滅ぼした(太平記)。長沢氏の出自については「尊卑分脈」や土岐系図などに「頼光五世孫土岐光信―左衛門尉光長―左衛門尉光経―出羽守光助」とあるが、以後系譜は知れない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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