長左衛門新田(読み)ちようざえもんしんでん

日本歴史地名大系 「長左衛門新田」の解説

長左衛門新田
ちようざえもんしんでん

[現在地名]三和町長左衛門新田

飯沼新田いいぬましんでん北部に位置。東の恩名おんな村の台地と、西の東山田ひがしやまた村の台地に挟まれる。村内を東から順に東仁連ひがしにれ川・飯沼川・西仁連川が南流。東仁連川に沿った微高地が住居区で、屋敷前やしきまえ・東屋敷の小字があり、のち西仁連川西岸台地に向山むかいやまの集落を分出。「飯湖新発記」に「飯沼新田之内、一反別七拾町歩、下(野)国都賀郡間中村長左衛門引請、是ハ、元仁連町分地之内買地ニ引請申候分」とあり、仁連村の負担を長左衛門が肩代りすることによって新田地を入手。同様に恩名村分の三三町歩も入手し、長左衛門一人請の新田として成立。

長左衛門新田
ちようざえもんしんでん

[現在地名]三和町間中橋まなかばし

吉田よしだ用水西岸の畑作地帯に位置。西の恩名村おんなむら新田・水口村みのくちむら新田とともに三新田、大戸村おおとむら新田(現結城郡八千代町)を加えてヶ新田、成田なりた新田(同)を加えると五新田とよばれ、享保期(一七一六―三六)の開拓。「飯湖新発記」に「渡呂賦御新田之内一反別弐拾七町歩 是ハ御払地奉願上引請候分」とみえ、猿島郡の長左衛門新田(現大字長左衛門新田)などとともに間中村(現栃木県小山市)名主長左衛門の一人請新田。

長左衛門新田
ちようざえもんしんでん

[現在地名]焼津市小川こがわ小川新町こがわしんまち一―五丁目

いわししま村の南・西、小川村の東に位置し、黒石くろいし川の河口部に立地する。志太しだ郡に属し、東は駿河湾に面する。寛永改高一九九石余、寛文改高二六八石余(小川村誌)元禄郷帳に村名がみえ、高四一八石余、田中藩領(国立史料館本元禄郷帳)

長左衛門新田
ちようざえもんしんでん

[現在地名]足立区谷中やなか三―四丁目など

久右衛門きゆうえもん新田の南に位置し、東は蒲原かばら村、西は五兵衛ごへえ新田、南は北三谷きたさんや村。田園簿では久右衛門新田と一括されて谷中新田とみえる。元禄八年(一六九五)検地で分村したとみられるが、その後も下谷中新田とも称された(風土記稿)。草切伝説では鎌倉出身の吉野長左衛門が開発したという(「東京府村誌」東京都公文書館蔵)

長左衛門新田
ちようざえもんしんでん

[現在地名]岩槻市平林寺へいりんじ

平林寺村の南、箕輪みのわ村の西に位置する。岩槻台地に開発された新田で、城下付属(宿付)の新田の一。村名は開発者である本宿ほんじゆく村中島長左衛門(岩付城主太田氏家臣の家柄)の名をとったといわれる。元禄郷帳に村名がみえるが無高。宝永六年(一七〇九)の岩槻各町宗門人別惣高(勝田家文書)では人数七四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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