長峰村(読み)ながみねむら

日本歴史地名大系 「長峰村」の解説

長峰村
ながみねむら

[現在地名]大鰐村長峰

西は苦木にがき村、西北に長峰村に含まれる俗称元長峰もとながみねの集落、東北に駒木こまき村がある。すぐ南に支村の九十九森くじゆうくもり村が接し、その南に唐牛かろうじ村がある。

仁治三年(一二四二)一〇月二五日の北条時頼下文(新渡戸文書)に「津軽平賀郡内大平賀郷新屋淵村長峯村地頭代職事 右平光弘 任今年四月十五日親父惟重譲状 可為彼職之状如件」とあり、長峰村の地頭代職が曾我惟重の子光弘に譲渡されている。元長峰集落の北側台地(現山辺)に長峰館跡があり、三つの郭と空堀が確認され、曾我氏の居館の一つと推定される。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「長峰」とある。

長峰村
ながみねむら

[現在地名]西京区大原野石作おおはらのいしづくり(長峰)

善峰よしみね川上流域に位置。北は大原野おおはらの、東は灰方はいがた、南は小塩おしお、西は坂本の各村に接する。古代は石作郷(和名抄)に属し、中世には善峰寺領(後、禁裏御料灰方庄内)荒野新田こうやしんでんの一部と考えられるが、中世には長峰の地名は現れない。

近世の村高六六・七石余はすべて公家の今小路家の所領、うち六石が淀の代助郷(臨時の助郷負担)に指定されている(文化年間「山城国中高附帳」)

長峰村
ながみねむら

[現在地名]千歳村長峰 前平まえひらしもはる

北東へ流れるあかね川南岸にあり、北東対岸は大迫おおさこ村。南東白鹿はくろく(二六六・六メートル)を望む。貞治六年(一三六七)正月二〇日の藤原氏輔寄進状(柞原八幡宮文書)にみえる井田いだ郷長峰名の遺称地。正保郷帳では田高二七二石余・畑高一八四石余、井田郷に属した。元禄見稲簿には岡領御絵図ニ出分として当村の内の大迫村をあげる。寛政三年(一七九一)には田原組に属した(「組々免村継郡付庄屋村横目名面帳」三重町立図書館蔵)。旧高旧領取調帳では大迫村は別に独立して記され、当村の高は三三九石余。

長峰村
ながみねむら

[現在地名]北部町四方寄よもき 長峯ながみね

坪井つぼい川右岸の台地上にあり、東は鶴羽田つるはだ村、南は馬出まいだし村、西は御馬下みまげ村に接する。天正年間(一五七三―九二)と思われる山上衆知行目録写(内田文書)に「長峯之内」とあり、一町が田尻与八郎の所領であった。寛永一四年(一六三七)の地撫帳によると、田方三町四反三畝余・畠方九町九反七畝、高一〇七石余とある。「国誌」によれば五町手永に属し、「立古閑ト云小村アリ」とある。

長峰村
ながみねむら

[現在地名]龍ケ崎市長峰町

舌状台地の南にあり、西は破竹はちく川を挟んで八代やしろ村。元禄郷帳の村高は五三〇石余、天保郷帳では五九九石余に増加する。幕末は旗本鈴木氏領一三六石余、根岸氏領一二〇石余、佐野・青山・永井・小林・別所各氏領各六八石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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