鏡島村(読み)かがしまむら

日本歴史地名大系 「鏡島村」の解説

鏡島村
かがしまむら

[現在地名]岐阜市鏡島市場かがしまいちば精華せいか西鏡島にしかがしま南鏡島みなみかがしま・鏡島・大菅おおすが西荘にしのしよう

長良川が北・西を区切り、南西江崎えさき村。中山道が東西に通る平坦地で、本郷は長良川岸から中山道を挟み東に延び、長良川の堤沿いに支郷古市場ふるいちば大灘おおなだ(現通称大名田)菖蒲池しようぶいけが散在する。古市場で中山道から分岐した道は、大灘を経てかめノ渡で対岸江口えぐち村に至る。鏡島湊が置かれ、一部町場化していた。「大乗院寺社雑事記」文明五年(一四七三)正月二三日条に加賀嶋殿とみえ、前年に奈良を発った一条兼良の夫人東御方(大乗院尋尊の母)美濃にいた子息是心院了高を頼って当地下向、二月に着いた。一条兼良も奈良より美濃に下向し、同年五月六日当地に着いた。翌日守護代斎藤妙椿が来訪し、宿所を移して接待をしている。同月一四日、いったん当地に戻ったのち、芥見あくたみ庄を一見して一七日に再び当地に戻り、鵜飼を見物した。同月二〇日奈良に帰るため当地を発った(藤川の記)。同年七月一日兼良夫人は瘧(熱病)にかかり、四日に妙椿より医師が当地に遣わされたが、一一月一日に六九歳で死去した(同書)。元亀二年(一五七一)一二月一五日、織田信長の家臣丹羽長秀が奪った禁裏料所近江国舟木ふなき(現滋賀県近江八幡市)などの返還のため岐阜へ派遣された山科言継は、慈恩寺(現本巣郡巣南町)から一里の当地を通り岐阜に着いた(言継卿記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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