銀座(東京都)(読み)ぎんざ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「銀座(東京都)」の意味・わかりやすい解説

銀座(東京都)
ぎんざ

東京都中央区西部にある日本有数の商店街、歓楽街日本橋京橋の中心商店街、丸の内・大手町の業務地区、有楽町(ゆうらくちょう)の歓楽街、霞が関(かすみがせき)・永田町の官庁街、および日比谷(ひびや)公園・皇居外苑の公園緑地とともに東京の都心地区を形成する。1612年(慶長17)江戸幕府銀座(銀貨鋳造所)を駿府(すんぷ)(静岡市)からいまの銀座2丁目に移したため、新両替(しんりょうがえ)町または銀座町とよばれた。その後、1800年(寛政12)日本橋蠣殻(かきがら)町に移された。現在2丁目中央通りに「銀座発祥の地」の碑が立てられている。なお、銀座に対する金座は、現在日本銀行本店のある地(日本橋本石(ほんごく)町)に設けられた。

沢田 清]

交通

銀座はかつて外堀、京橋川などの水路で囲まれていたが、それらは現在すべて埋め立てられ、首都高速道路となっている。東京地下鉄の銀座線・丸ノ内線・日比谷線・有楽町線、都営地下鉄浅草線が集中し、交通の中心である。

[沢田 清]

歴史

徳川家康が江戸城に入城した1590年(天正18)ごろは、日本橋、京橋、銀座および大手町、丸の内一帯は日比谷入り江とよばれる浅い海であった。家康は大手町、丸の内地区を1592年(文禄1)から埋め立て始め、ついで町人の地として日本橋、銀座一帯を1600年から埋め立てたという。銀座の埋立ては1603年で神田山(駿河台(するがだい))の土を運んできた。

 江戸時代、町屋として旧東海道筋に商店が軒を連ねたが、経済の中心は日本橋地区にあり、銀座の発展は明治以後である。1872年(明治5)の大火後の再開発にあたり、当時の東京府知事由利公正(ゆりきみまさ)は銀座を西洋風建築のモデル地区に計画した。幅員26メートルの道路には、歩道が設けられ、サクラ、マツカエデなどの街路樹が植えられた。「銀座の柳」といわれるヤナギは1880年ごろで、赤れんがの2階建て建築とよく調和した。アーク灯、ガス灯、鉄道馬車、市電など新しいものが導入され、やがて銀座の名が全国に知れ渡るようになった。

 明治初期の銀座はいまの中央通り東側の1~4丁目にすぎなかったが、関東大震災後8丁目まで延長、西側は銀座西(江戸時代は紺屋(こんや)町、弓町など)と1930年(昭和5)命名された。昭和通り以東はもと木挽町(こびきちょう)とよばれていた所で、1951年(昭和26)銀座東と改称された。さらに1968~1969年銀座、銀座西、銀座東が統合されて、現在の銀座となった。

[沢田 清]

街並み

銀座は日本最高の中心商店街として発展しているが、そのなかでも4~8丁目の中央通りが中心である。尾張町(おわりちょう)とよばれる4丁目交差点には古風な時計塔のある和光(わこう)、三越デパート、円筒形の三愛ドリームセンター、伝統工芸の透彫りをモチーフとした外観の銀座プレイスで囲まれ、ここから8丁目まで高級専門店が並ぶ。この通りを「横の銀座」とよぶのに対し、晴海(はるみ)通りは「縦の銀座」と称し、日比谷から続く商店街、歓楽街として新しく発展した。有楽町駅東側の旧朝日新聞東京本社跡(1980年築地(つきじ)へ移転)と旧日本劇場跡には、有楽町西武、有楽町阪急のデパートが進出し(現在はルミネ有楽町、阪急メンズ東京)、面目を一新させている。また、歌舞伎座(かぶきざ)(1951年再建、2013年第5期歌舞伎座竣工)、新橋演舞場(1982年改築)、松屋、マロニエゲート銀座など多くのデパート、『君の名は』で知られる数寄屋橋(すきやばし)跡、画廊など、夜のネオンの美しさと相まって全国各地からの人の訪れでにぎわう。銀座の歩行者天国は1970年に東京で最初に指定されたもの。

[沢田 清]

『田村栄太郎著『銀座、京橋、日本橋』(1965・雄山閣出版)』『安藤更生著『銀座細見』(中公文庫)』


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