野路宿(読み)のじしゆく

日本歴史地名大系 「野路宿」の解説

野路宿
のじしゆく

古代末から中世にかけて存在した中世東海道の宿。野路駅ともみえ(「吾妻鏡」承久三年六月一二日条など)野地とも記される。現野路町付近に比定され、同町の野路岡田のじおかだ遺跡にあてる説がある。「平治物語」中(義朝奥波賀に落ち著く事)によると、平治の乱に敗れた源義朝らは「野路のへん」を通って落延びている。戦略上重要な地とされ、治承四年(一一八〇)九月、平維盛が率いる五万余の軍勢は源頼朝追討のため京都を発し、瀬田せた川を越えて「野路の宿」に着いている(「源平盛衰記」巻二三)。「玉葉」同年一二月三日条には「勢多・野地等在家数千宇」と記され、平知盛軍はこの一帯に火を放っている。寿永二年(一一八三)四月二三日の大和国平田庄公文所陳状(興福寺文書)に「近江国野路御宿所」とみえる。建久元年(一一九〇)一一月五日、上洛する頼朝が当宿に着いたとき、前右馬助朝房が三上みかみ(現野洲郡野洲町)から飯・酒肴を捧げており(「吾妻鏡」同日条)承久の乱の最中には、西上する北条時房・泰時ら幕府軍が承久三年(一二二一)六月一三日に野路を発し、勢多せた(現大津市)・山城宇治などへ分岐して進軍している(同書同日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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