野積谷・野積保
のづみだに・のづみほ
八尾町南西部の野積谷・室牧谷・仁歩谷・大長谷の総称。単に野積四谷ともいう。中世以来のまとまりのある地域の通称名であり、近世にも諸史料に谷としてみえ、ある程度支配単位として機能していた。「三州地理志稿」では一〇二村とする。史料上は貞治五年(一三六六)一二月二二日の足利義詮袖判下文(慶応大学図書館所蔵文書)に「越中国柳河・野積両保地頭職」とみえ、足利義詮は近江佐々木一族の高満に勲功の賞として、近江国河田郷(現滋賀県守山市など)に替えて柳河(現山田村か)・野積両保地頭職を給している。谷中の布谷に次のような渡辺綱の伝承がある。近江飯が峰城(現滋賀県坂田郡か)攻撃に敗れた綱らは越中に逃れ、綱は楡原保内の杉原・保内を治めるようになった。孫綱親の代には越中に下向した後三条天皇の皇子嵯峨宮を神通川辺りで助け、城生にかくまっていた。布市(現富山市)の篠塚道有も綱親を援助した。帰京した宮は綱親に越中惣庄官、道有に長者の名乗りを許し、その功に報いた(肯泉達録)。よって渡辺氏は烏天狗を布谷の紫野社に祀って守護神とし、野積谷の開祖となったという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報