郭内(御構内)(読み)こうない(ごこうない)

日本歴史地名大系 「郭内(御構内)」の解説

郭内(御構内)
こうない(ごこうない)

[現在地名]多久市多久町たくまち 東の原ひがしのはる西の原にしのはる東町ひがしまち西町にしまち浦町うらまち道祖元さやのもと桐岡きりおかおか

梶峰かじみね城下山麓の北面東西にわたって展開する一帯若宮わかみや八幡宮参道を中心に、東を東の原、西を西の原と称し、多久町(現東町・西町・浦町・道祖元・桐岡・岡)を含む。「郭内ハ俗ニ御構内ト云」(丹邱邑誌)とあり、今も御構内と称され、また現在の通称は本多久ほんたくである。

元亀元年(一五七〇)梶峰城主となった竜造寺長信が、同二年群臣の居宅を城下に構えさせたことに始まる。当時は「御城下」であった(水江事略)。また「小路くうじ廻り」ともよび、数百の家老・馬乗・侍中や土民の屋敷が建っていた。北側のうう(牛津川)沿いには多久町が興り、街巷市坊をなして、当初より租税免許の地であったという(丹邱邑誌)

佐賀からの本道は、長尾ながお宿から大川の猿渡瀬さるわたせを渡り、山崎やまさき山麓を回って八溝やつみぞを通過、椋瀬むくのせ橋を経ると多久町駅に至り、さらに道祖元からおんな山に向かう伊万里往還、岡の原おかのはる(現岡)・桐岡を経て志久しく峠またはうう峠を越える杵島きしまへの道も、この多久町駅から分れていた。

古くは女山村・板屋いたや村・藤河内ふじのかわち(三村併せて現西多久町)とともに上多久かみたく庄と称された(丹邱邑誌)。建久四年(一一九三)多久太郎宗直築城時も、北に多久川(牛津川)を背に、南におにはな山・大峰尾おおみねお連峰を控えて、中核的集落であったと推測され、後代前述のように城下となった。

明暦二年(一六五六)三月、城内上屋敷よりの出火で城下はほとんど焼失し、竜造寺長信以来の家臣団は地方采地に在郷したが、延宝五年(一六七七)一一月、三代領主茂矩は新館を東の原の多久弾右衛門の屋敷跡に建築。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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