輪田庄(読み)わだのしよう

日本歴史地名大系 「輪田庄」の解説

輪田庄
わだのしよう

古代に大輪田おおわだ泊があった現兵庫区の海辺部を中心とした地域に比定される九条家領庄園。八部やたべ郡に属した。延久三年(一〇七一)六月二四日の太政官符(九条家文書、以下断らない限り同文書)に輪田庄とみえ、正子内親王(後朱雀天皇皇女)家領として当庄本免田五町と庄司五人・寄人一〇人の臨時雑役を免除された。延久の庄園整理令施行にあたって、代々の国司免判五通を提出し認められたもので、当庄の成立はこれ以前であった。長治二年(一一〇五)橘経遠は八部郡七条二―四里、八条三―四里、九条四―五里、一〇条四―五里に散在する相伝の田畠三〇町を藤原宗通に寄進、同坪には兵庫庄延定名・松枝名が混在していた(同年二月一〇日橘経遠寄進状)。右の地は八部郡宇治うじ村石重名にあり、嘉承二年(一一〇七)一二月日の摂津国司庁宣によって宗通家領として立券されたが、同国司庁宣の端裏に「輪田券」とあり、のちの九条家領輪田庄の根本史料の一つとなっている。先の正子内親王家領と宗通家領がいつ合体して九条家領となったかは不明であるが、正子内親王家のもう一つの家領高平たかひら(現三田市)と同様に皇嘉門院(藤原忠通の女、宗通の孫)を通して女院の弟九条兼実に伝領されたと思われる。

応保二年(一一六二)以前より当庄は隣接する庄園から押領を受け、同年平清盛が家使藤原能盛に八部一郡を検注させた後にも押領は続いたが、平氏が不法にも一郡を押領したため沙汰止みとなっていた。平氏滅亡後、郡内七ヵ庄は源頼朝により各本所に返付され、各庄は毎年検注を行ったため、再び隣接諸庄に入交じる当庄の散在田が押領された(建仁二年二月一四日輪田庄庄官源能信等申状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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