貴志村(読み)きしむら

日本歴史地名大系 「貴志村」の解説

貴志村
きしむら

「岸」とも記し、奈良時代から紀ノ川河口の入海に面してあった村。おおむね現在の和歌山市梅原うめはら栄谷さかえだになか(貴志中)を中心とする地域に比定される。「続日本紀」天平神護元年(七六五)一〇月の記事に称徳天皇の紀伊行幸のことがみえ、二五日条に「還到海部郡岸村行宮」とある。栄谷にこの岸村行宮跡と伝える地があり、江戸時代末期に碑が建てられたが、地形の変化も激しく、比定地は明らかでない。また「日本霊異記」下巻の「弥勒の丈六の仏像、其の頸を蟻に嚼まれて、奇異しき表を示す縁」には「紀伊の国名草の郡貴志の里」がみえる。前者では海部あま郡、後者では名草なくさ郡とあるのが留意される。

古代には海部・名草両郡の境は一定しなかったが、栄谷が近世初頭には「堺谷」(慶長検地高目録)と記されたことなどからみて、この地域が郡界をなしていたと推定される。

貴志村
きしむら

[現在地名]三田市貴志・すずかけだい

下深田しもふかた村・上深田村の北に位置する。武庫むこ川右岸の河岸段丘上に発達した農業地域。山谷やまたに川は西部丘陵を源とし、山裾さら池・かみノ池・とりたに池などの溜池が点在する。岸村とも記される(天和三年頃の摂津国御料私領村高帳)。慶長国絵図に二つの貴志村が並記され、高九七二石余。正保郷帳では高一千一四七石余。天保郷帳では高一千一六〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報