豊後町(読み)ぶんごまち

日本歴史地名大系 「豊後町」の解説

豊後町
ぶんごまち

[現在地名]中津市中津 豊後町

さくら町の北の辻より東へ蠣瀬口かきぜぐち御門へ通ずる街路沿いの職人や商人の町。享保四年(一七一九)には軒数九七・竈数一二〇。安永六年(一七七七)は空地一・空家七。文化二年(一八〇五)は軒数九八・竈数九〇、空家二。同七年は八五軒と報告されている。同一〇年一二月鷹匠たかじよう町からの出火で四九軒を類焼した(惣町大帳)町名について「中津興廃記に云ふ、古老の説に、中津豊後町と云ふは、慶長中、大友義統配流の時、家来の者浪人して、此町に集り居たるに因て、豊後町と名付たり」と説明している(下毛郡誌)

享保四年長谷屋長右衛門は大坂伊丹いたみ(現兵庫県伊丹市)の酒を買寄せ、販売することを許可された(惣町大帳)。宝暦四年(一七五四)長谷屋安左衛門は鍋物座を願出て許され、以後鍋物を他所より取寄せて商売する場合は、鍬先一枚につき二文ずつ同人へ納めることになった。

豊後町
ぶんごまち

[現在地名]長崎市桜町さくらまち金屋町かなやまち興善町こうぜんまち

しん町の北東にある長崎うち町の一ヵ町で、陸手に属した。町並南北に形成され、南は引地ひきち町、北は小川おがわ町に通じる。町名は島原城主松倉豊後守重政の屋敷が置かれていたことに由来するというが、豊後国から来住したキリシタンにより成立したと考えられる。慶長元年(一五九六)長崎警衛のため桜町との間に大堀(二ノ堀)が設けられたが、延宝八年(一六八〇)豊後町堀が涸水がちのため埋立てられ、曾根川検校の屋敷地(表五間・入七間)になったという(長崎古今集覧)。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「ぶんご町」のキリシタン「はうろ」が署名している。

豊後町
ぶんごまち

[現在地名]東区大手通おおてどおり二丁目・豊後町

内淡路うちあわじ町一丁目西半の南にある三筋の竪町。「宝暦町鑑」に「しあんばし東詰より南へ三すじとも、天神ばしすじ西へ」とあり、東は折屋おりや町と与左衛門よざえもん町に接するが、思案橋しあんばし筋を挟む部分は松屋町まつやまち筋の少し東より、残る二筋の両側町は同筋より西へいずれも内平野うちひらの町に接する。町名は明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図にみえる。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数二四・役数二四役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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