諸寄湊(読み)もろよせみなと

日本歴史地名大系 「諸寄湊」の解説

諸寄湊
もろよせみなと

[現在地名]浜坂町諸寄

諸寄村の北西部、日本海の湾入部にある。天然の良港で、寛文年中(一六六一―七三)河村瑞賢によって西廻航路が整備されると、同航路の風待湊として発展した。湊の入口には日和ひより山がある。なお天明七年(一七八七)に江戸日本橋にほんばし前川六左衛門が版元となって発行した絵図では津居山ついやま(現豊岡市)丹生にゆう(柴山、現香住町)と並んで但馬国の良港三ヵ所のうちにあげられている。元禄一〇年(一六九七)対田たいた村の仁右衛門らが絹巻島に灯明を立て、諸国廻船の安全を図りたいと豊岡藩奉行に願出ている(同一一年「御公用万止書」大郷長文書)。しかしこれは認められなかったようで、正徳元年(一七一一)諸寄村庄屋七右衛門(松森家)が同様の願書を提出、今度は認可され、翌二年絹巻島に高灯明が立てられた。七右衛門は灯明運上を豊岡藩に上納する一方、入津の廻船から一人につき二二文の口銭(棒杭銭)を取立てている(浜坂町史)

諸廻船往来改帳(旧西浜村役場文書)によると、文政九年(一八二六)から天保六年(一八三五)まで当湊に入津した廻船は最も少ないのが文政一二年の五八艘、最も多いのは天保四年の一一三艘で、一〇年間では計八六九艘、季節では三月から七月が多く、海が荒れる秋から冬は激減している(一一月・一二月は皆無)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報