観心寺庄(読み)かんしんじのしよう

日本歴史地名大系 「観心寺庄」の解説

観心寺庄
かんしんじのしよう

観心寺近郷にあった同寺領庄園。寿永元年(一一八二)八月二八日付高野山僧鏡尋解(石山寺所蔵聖教目録裏文書)に初見。この解は、当庄を吉野金峯山寺に寄進しようと計った庄民則安らを訴えた鏡尋に対し、則安らがかえって訴えを起こし、鏡尋の私領田畑が召上げられ麦を刈取られたことに対し、本家政所の裁定を請うた文書。本家は明記はないが、治承三年(一一七九)当時石山いしやま(現大津市)と観心寺が禅林ぜんりん(現京都市左京区)末寺とされ、本文書が石山寺に伝来することを考えれば、禅林寺かもしれない。なお後述のように室町時代に観心寺が有したのも領家職以下の所職である。錦部にしごり郡には、元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書、以下特記しない限り同文書)によれば、観心寺領としては高田たかだ庄・治田野はるたの庄があったが、その後の庄園再編成の過程で、観心寺近傍の諸村が、同寺領庄園として再編成されたものであろう。

嘉元四年(一三〇六)一二月二一日付の僧慶順田地売券に「河内国錦部郡観心寺御庄領小西見郷」とみえるように、庄の下に郷(村)がみられ、南北朝時代からは七郷(七村)と称される(弘和三年一二月九日付長慶天皇綸旨など)。その七郷とは文亀元年(一五〇一)とみられる観心寺七郷納帳によれば、鳩原はとのはら太井おおい小深こぶか石見川いしみがわ上岩瀬かみいわぜ・下岩瀬小西見おにしみの七郷、すなわち石見川沿いの五郷と、天見あまみ川沿いの上岩瀬・下岩瀬からなることが判明する。なお、観心寺のある寺元てらもとは七郷には数えられない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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