出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
羽村堰の東方、奥多摩街道と新奥多摩街道の中間にある臨済宗建長寺派寺院。東谷山と号し、本尊は十一面観音。「風土記稿」や旧高旧領取調帳には深林寺と記される。文禄二年(一五九三)鎌倉円覚寺の春覚を開山、当地の島田氏の祖である島田九郎右衛門を開基として創建されたと伝える。寺名は、本山鎌倉建長寺総門の扁額「天下禅林」に由来するという。文化八年(一八一一)火災により堂宇が灰燼に帰したが、天保一三年(一八四二)再興(西多摩村誌)。明治期以降、羽村・西多摩村の政治的集会場としてしばしば利用された。大正一一年(一九二二)漏電により本堂が焼失、その原因究明のため村民決起大会が境内で開催された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号を聖衆来迎山,院号を無量寿院といい,一般には永観堂の名で親しまれる。空海の弟子真紹は仁明天皇の厚遇に報いるため河内の観心寺に五仏を安置したが,辺地の縁に乏しいことを嘆き,855年(斉衡2)上表して藤原関雄の東山の山荘を買得し,一宇を建立して五仏を安置し,鎮護国家の道場としたのが初めである。2世の宗叡は真紹の甥で清和天皇に進講し,863年(貞観5)天皇は禅林寺の寺名を下して定額寺とし,877年(元慶1)には山城愛宕(おたぎ)郡の公田4町が施入された。ついで3世に平城天皇の皇子真如法親王,4世に宇多天皇の孫寛忠,5世に九条師輔の子深覚,6世に花山天皇の皇子深観が入寺し,真言宗の血脈にそいながら貴族の寺として栄えた。承暦年中(1077-81)に深観の弟子永観が入寺し,一角にある東南院に幽居して《往生拾因》などを著し,いわゆる念仏宗を唱え,往生講を勤修したので,禅林寺は真言浄土の寺となった。1082年(永保2)永観は念仏行道のとき,弥陀顧命(みかえり)の相を感得して,本尊としたと伝え,その教化はひろく僧俗に及んだので,禅林寺は中興と称される永観の名をとって,永観堂と呼ばれるようになった。そののち真言浄土の僧珍海が入寺し,また浄土宗の祖法然房源空の門下に入った真言僧の静遍が住持すると,源空を招請して開山としたので,禅林寺は浄土宗に転じることとなった。そのあとには源空の弟子で浄土宗西山の派祖証空が入寺し,ついで2代は藤原氏出身の園城寺の僧が続いたが,17世に西山派西谷流の祖浄音が住持して以来同派の寺となった。恵心僧都源信が描いたと伝える国宝の《山越阿弥陀図》や重要文化財の《当麻曼荼羅(たいままんだら)縁起》をはじめ,浄土教絵画を中心に多くの寺宝がある。平安時代末期からの念仏ゆかりの寺としての面影を残し,境内には禅林十二境がある。
執筆者:菊地 勇次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
京都市左京区永観堂(えいかんどう)町にある浄土宗西山(せいざん)禅林寺派総本山。聖衆来迎山無量寿院(しょうじゅらいごうさんむりょうじゅいん)と号し、俗に永観堂とよばれる。空海の弟子真紹(しんじょう)によって855年(斉衡2)に創建され、863年(貞観5)禅林寺の勅額を賜った。以来、密教の正法を伝えたが、第7世として三論宗の永観(ようかん/えいかん)が住し、東南院を構えて浄土念仏を唱導するに及び念仏の道場となった。当寺にはこの永観にちなむ伝承が多く、念仏行道のとき弥陀(みだ)が先に立って後ろを振り返ったというので本尊を「見返り阿弥陀如来(あみだにょらい)」といい、また念仏三昧(ざんまい)に入ると光明赫然(かくぜん)として星のごとく聖衆が来迎したので、聖衆来迎を山号としたなどと伝える。また永観堂の称も永観の名に発する。その後、法然(ほうねん)(源空)に深く帰依(きえ)する静遍(じょうへん)が第12世として住し、西山派祖証空(しょうくう)がこれを継いで、当寺はまったく浄土宗に改宗され、寺門は大いに興隆した。源頼朝(よりとも)は静遍の高徳を慕い、当寺に帰依(きえ)して『大般若経(だいはんにゃきょう)』を転読させたので、この法会(ほうえ)が今日に伝わる。しかし応仁(おうにん)の乱などの戦乱もあってしばらくの間衰微したが、34世宏善(こうぜん)、37世果空(かくう)らの努力によって回復に向かい、豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康などの加護もあって漸次堂塔伽藍(がらん)も再興された。寺宝の絹本着色山越(やまごし)阿弥陀図(鎌倉時代)と金銅蓮花文磬(れんげもんけい)(平安後期)は国宝。そのほか浄土教系の美術遺品が多い。紅葉(もみじ)の名所として知られ、「いわがき楓(かえで)」は『古今集』にも詠み込まれている。
[森 章司]
『『古寺巡礼 京都23 禅林寺』(1978・淡交社)』
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