見瀬村(読み)みせむら

日本歴史地名大系 「見瀬村」の解説

見瀬村
みせむら

[現在地名]橿原市見瀬町

久米くめ村東南方、旧しもツ道に面する街村。ミセは古代地名身狭むさ転訛と考えられた(古事記伝)倭彦命身狭桃花鳥坂むさのつきさか墓、宣化天皇の身狭桃花鳥坂上むさのつきさかのへ陵が西方鳥屋とりや村に治定されている。式内社牟佐坐むさにいます神社が鎮座する。また身狭臣(「日本書紀」皇極紀)、身狭君勝牛(同書舒明紀)、身狭村主すぐり(同書雄略紀)、牟佐村主・牟佐呉公(姓氏録)、牟佐村主相模(続日本紀)などの人名がみえ、「日本書紀」欽明天皇一七年一〇月条には「韓人大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉を置かしむ」とあり、身狭は渡来人の居住地として知られた。益田池碑文の「武遮荒壟むさあらはか」もこの付近とする。現高市郡明日香村大字阿部山あべやまには小字ムサノマヘ、現橿原市大久保おおくぼ町に小字ムシがある。

見瀬村
みせむら

[現在地名]静岡市見瀬・新川しんかわ二丁目・馬渕まぶち三―四丁目

馬淵まぶち村の南に位置する。三瀬・見世・三世とも書く(駿河志料)。寛永九年(一六三二)幕府領、宝永三年(一七〇六)旗本曾我領となり幕末に至る(「安倍郡誌」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報