西駒野村(読み)にしこまのむら

日本歴史地名大系 「西駒野村」の解説

西駒野村
にしこまのむら

[現在地名]南濃町駒野こまの

津屋つや川が揖斐いび川に合流する辺り、現町域の中央部やや北寄りに位置する。村の南を伊勢東街道が通り、津屋川対岸駒野新田。弘治二年(一五五六)九月二〇日の斎藤高政安堵状(東高木文書)に西駒野郷とみえ、高木貞久は同郷など六郷を高政(義龍)より安堵されている。以後高木氏は織田信長・信雄に仕え、天正一二年(一五八四)五月二一日、高木貞利ら四人は本知分並駒野で計一万貫を宛行われ、小牧長久手の戦への出陣を催促されている(「織田信雄判物」同文書)。同一四年七月二三日、高木貞友は駒野郷七六一貫二〇〇文余など合せて八六〇貫文を信雄から宛行われている(「織田信雄黒印状」同文書)。なお同八年一〇月日には駒野町市の開催の権利を「如前ゝ可相立」ことが織田信忠より安堵されており(「織田信忠安堵判物」同文書)、すでに町場化していたことが知られるが、これは揖斐川などの舟運にかかわるものか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報