西笠間保(読み)にしかさまほ

日本歴史地名大系 「西笠間保」の解説

西笠間保
にしかさまほ

単に笠間保ともいい、笠間郷ともよばれる。現笠間町・松本まつもと町・石立いしだて町一帯に比定され、北東に笠間東保がある。両保とも古代の石川郡笠間郷(和名抄)に成立したものであろう。

明徳元年(一三九〇)閏三月一八日の足利義満下知状案(「北野神社目安以下色々事」北野神社文書)に「笠間郷」とみえ、地頭職を京都北野社家の二季八講祭礼料・三年一請会料所として寄進した。これによれば至徳三年(一三八六)一二月二五日、地頭笠間伊勢守用光の地頭職は没収され、北野宮寺の法花八講領として寄進されたが、用光は神役を勤仕すると主張したため、代官の現地入部は見送られた。しかし用光は明徳元年二月に八講料足を難渋したため、至徳三年一二月一円神領とされた。同年四月一九日、領家は山城石清水いわしみず八幡宮であるが、地頭請所であるという北野社家の主張をいれ(「斯波義将施行状」北野神社目安以下色々事)、同年六月二一日、石清水八幡宮に毎年五〇〇疋(五貫文)の銭を納入することで北野社の一円神領とした(「足利義満下知状」北野神社目安以下色々事)。しかし応永六年(一三九九)領家年貢の不足を石清水方が提訴し、毎年一千疋で落着(同年七月二五日「足利義満下知状」北野神社目安以下色々事)、一二月三〇日、北野社納所は一〇貫文を石清水八幡宮に送っている(「僧増覚送進状案」石清水八幡宮記録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報