西楽院跡(読み)さいらくいんあと

日本歴史地名大系 「西楽院跡」の解説

西楽院跡
さいらくいんあと

[現在地名]大山町大山

大神山おおがみやま神社奥宮の社務所後ろ、厚い石垣に囲まれた枡形、およびその正面の城壁を思わせる高い石積みの奥の草木に覆われた一帯に、近世大山支配の政庁であった本坊西楽院の跡がある。院名は「さいがく」とよまれたともされるが未詳。西楽院の建物は他の諸堂社と同様、火災などに度々見舞われ、その都度再建を余儀なくされた。おもなものとしては明暦元年(一六五五)と万治二年(一六五九)の再度の火災、寛文八年(一六六八)の再建があり、安永六年(一七七七)の焼失後の再建では作事人夫二千人が汗入あせり会見あいみ・日野の三郡から徴発されている(在方諸事控)。その後天明(一七八一―八九)初年にも焼失、寛政八年(一七九六)には本社智明権現および下山しもやま社の火災により類焼、近国への勧進などにより、ようやく安政五年(一八五八)に最後の再建が完成している。このとき日野郡根雨ねう(現日野町)の近藤家が寄進した長門は明治の寺号廃絶による解体の際、大神山神社奥宮の神門として転用され、現在は国指定重要文化財。

創建の時期は未詳だが、天文二四年(一五五五)一〇月二八日の洞明院棟札写(大山雑考)に山上奉行として西楽院澄禅の名がみえることなどから、中世にさかのぼることは確実である。ただし中世の西楽院は中門院ちゆうもんいん谷の一僧坊にすぎず、大山一山の本坊として住僧・領民の支配権をもっていたことが確認できるのは慶長年間(一五九六―一六一五)に下る。同一五年四月二八日幕府から与えられた大山領三千石安堵の徳川秀忠黒印状(本光国師日記)は西楽院に宛てられている。さらに同一九年の朱印状(理観院文書)によって寺領ならびに山林・境内はすべて西楽院の差配と認められた。西楽院が大山一山の政庁(本坊)たるに至ったのは、西楽院住僧豪円の働きによるものとされる。豪円の出自や豪円を名乗る以前の名や経歴については明らかでなく、一説ではのち大山領汗入組大庄屋を勤めた中津尾家の出身とされる。大山へ入山の時期や職名も不詳だが、「大山諸事覚」は文禄三年(一五九四)当山に帰山とし、初名を円智法印とする。その後宝菩提院を相続、さらに豪円と名を改めたという。慶長一五年二月八日往古よりの大山所領の返付を求める書状が西楽院僧正豪円から幕府に提出されたとされ(「豪円書状写」西伯郡自治史)、同年四月には前出安堵の黒印状が西楽院に与えられていることから、同年にはすでに一山の支配権を握っていたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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