藤原山陰(読み)ふじわらのやまかげ

朝日日本歴史人物事典 「藤原山陰」の解説

藤原山陰

没年:仁和4.2.4(888.3.20)
生年:天長1(824)
平安前期の公卿。高房と参議真夏の娘の子。山蔭とも。美濃守,備前守などを経て仁和2(886)年中納言,翌年民部卿を兼任。吉田神社(京都市左京区)は貞観年間(859~877)山陰が春日社,大原野社を勧請して氏神としたものといい,摂津国の総持寺(茨木市)もその発願と伝える。大宰府の長官として下向の途次,愛児が船中から継母に海に突き落とされたが,以前山陰に助けられた亀に救われたという逸話をはじめ,『今昔物語集』『平家物語』などには山陰にまつわる伝説の類が数多く収められている。初めて包丁を製し,光孝天皇の命により料理式を定めたという伝承も有名で,その関係から料理包丁道の四条流の祖とされている。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報