菱屋町(読み)ひしやちよう

日本歴史地名大系 「菱屋町」の解説

菱屋町
ひしやちよう

中京区三条通高倉西入

東西に通る三条さんじよう(旧三条大路)を挟む両側町。東側を高倉たかくら(旧高倉小路)、西側を東洞院ひがしのとういん(旧東洞院大路)が通る。

平安京条坊では、左京三条四坊二保四町南及び同四条四坊一保一町北。平安中期以降は三条東洞院大路の東。

平安末期、この町北側方一町に内大臣藤原公教の邸があった。「山槐記」永暦元年(一一六〇)七月九日の条に「今暁寅剋許内大臣薨云々(中略)於三条高倉亭薨、女御被坐此所也」とある。

菱屋町
ひしやちよう

[現在地名]東区うえ町一丁目・玉造たまつくり二丁目

玉造越中たまつくりえつちゆう町三丁目の南に延びる両側町で、東は吉右衛門肝煎地きちえもんきもいりち、西は玉造紀伊国たまつくりきのくに町・城代屋敷。「天保町鑑」に「久ほうじ橋通南へ入」とある。当町はもと玉造越中町四丁目と大路おおじ町であったが(東区史)、元禄六年(一六九三)町からの願いで合併、町名も変更された(大坂町之内町名替り候写)。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図には「とろ町」とみえる。大坂三郷北組に属し、元禄一三年の三郷水帳寄帳では屋敷数一八・役数一九役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。

菱屋町
ひしやまち

[現在地名]福知山市字菱屋

城下の繁華街新町しんまち筋の北に連なる町で、西は下紺屋町しもこやまち、東は下柳町しもやなぎまち、南は広小路ひろこうじを境に下新町に接する。北は寺町てらまち(京街道)であるが、地籍上は街道を越えて由良川堤防に接する。

町名は城外の沼沢でとれる菱を商う者がいたことによるかと考えられるが、確証はない。ただ寛文八年(一六六八)の福知山藩日記(島原市立図書館松平文庫)に菱屋藤右衛門などの名がみえる。

菱屋町の南、広小路西の角には福知山城下随一の素封家といわれ塩屋を屋号とした吉田三右衛門家があった。吉田家は承応二年(一六五三)に来住し、酒造・塩問屋・鉄問屋・金融業などを手広く営み財を築いた。

菱屋町
ひしやまち

[現在地名]大津市長等ながら二丁目

石橋いしばし町の東に位置する。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえる。元禄八年町絵図では家数二四、これには町之家(番所)と人足会所各一軒が含まれる。人足会所は表口二〇間・裏行二一―二五間。文政元年(一八一八)の幕府御用金は菱屋勘兵衛が四千両、同三右衛門が二五〇両を負担、慶応元年(一八六五)大津宿役を負担した役家数二五軒(大津市志)。天保九年(一八三八)丸屋まるや町境の通路で見つかった行倒人の処理について、その負担の分担などを取決めている(丸屋町自治会共有文書)

菱屋町
ひしやちよう

上京区大宮通下立売下ル

南北に通る大宮おおみや(旧大宮大路)の両側町で、南は椹木町さわらぎちよう(旧中御門大路)。平安京の条坊では左京一条二坊二保四町の西側の地。平安中期以降は勘解由小路かげゆこうじ大宮大路の南の地。四町の地は官衙町の「外記町」で、この西は大宮大路(拾芥抄)

菱屋町
ひしやちよう

下京区西中筋通七条上ル

南北に通る堀川ほりかわ(西中筋通)に面する片側町

平安京の条坊では、左京七条二坊三保一二町の地。当町全域は、平安京の官設市場であった東市ひがしのいちの東南部にあたる(拾芥抄)

近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち若松組に所属。

菱屋町
ひしやちよう

上京区中筋通浄福寺東入

今出川いまでがわ通の一筋南を東西に通る中筋なかすじ通の両側町。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「ひしや丁」とみえ、その後変更はなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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