菅井庄(読み)すがいのしよう

日本歴史地名大系 「菅井庄」の解説

菅井庄
すがいのしよう

近世の菅井村を荘域とする南都興福寺(春日神社)領。立荘および興福寺領となった経緯は不明。古河ふるかわ庄とも称した。

経覚私要鈔」宝徳二年(一四五〇)三月七日条に「□□(祐カ)盛来、山城国菅井庄事、守護代隅田佐渡入道可□下之由望申云々、此条難堪」とみえ、山城守護代隅田佐渡入道が菅井庄管領を望み、興福寺では困惑している様子がうかがわれる。「大乗院寺社雑事記」長禄二年(一四五八)閏正月一三日条に「山城国菅井庄事、去享徳三年東北院口入ノ間、椿井ニ申付之、請文案如此、但其後畠山方ノ者又致代官了、無沙汰珍事也」とあって椿井氏懐専が代官職に任じられている。この時の椿井氏の代官請文に

<資料は省略されています>

とみえる。また同年五月一六日条には「就菅井庄事、就飯尾下総守歎申入了、仍目安一紙京都ニ上了」として、次の言上状が記される。

<資料は省略されています>

その後も興福寺への返還はかなえられず、同書長禄四年正月一八日条に「菅井庄代官事、加茂中村光宣所望之云々、不可叶旨仰返事、当庄事宝徳年中ヨリ、称代官畠山徳本入道押領之、其以後于今無本(復)、仍連々京都ニ歎申入者也」とあるが、菅井庄代官を称し、年貢ほか一切を押領していた守護代誉田遠江が失脚したことにより、長禄四年二月ようやく直務に戻った(「大乗院寺社雑事記」同月九日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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