茂木村(読み)もぎむら

日本歴史地名大系 「茂木村」の解説

茂木村
もぎむら

[現在地名]長崎市茂木町・北浦町きたうらまち田上たがみ一―四丁目・三景台町さんけいだいまち早坂町はやさかまち田手原町たでわらまち太田尾町おおたおまち飯香浦町いかのうらまち潮見町しおみまち春日町かすがまち宮摺町みやずりまち大崎町おおさきまち千々町ちぢまち

日見ひみ村の南にある。東部は海に面し、茂木浦若菜わかな川と合流した川平こうひら川が注ぎ込む。南部にくまヶ峰・悪所あくしよ岳などがある。西部の田上峠は長崎の出入要路六口の一つとして重視された(長崎名勝図絵)。地内に北浦・田上・飯香浦・大崎などがある。元亀元年(一五七〇)か同二年と推定される二月一三日の有馬義純書状写(福田文書)に茂木とみえ、義純は叔父の大村純忠の家臣福田兼次から茂木方面に深堀衆が現れたと聞き、千々石ちぢわ(現千々石町)から援軍を送ることを約束している。一五八〇年(天正八年)大村純忠は長崎とともにモギをイエズス会に寄進、イエズス会領となった(同年六月九日「大村純忠・喜前連署寄進状」ローマ・イエズス会本部所蔵文書、和暦では四月二七日付)。当地の寄進は、イエズス会にとっては大村領と高来たかくの間を敵地を通らずに往来することが可能となり、大村氏にとっては西郷氏・深堀氏による再三の攻撃を避けることが目的であったらしいが、龍造寺氏との緊張のなかで大村氏がイエズス会から軍事費を借用していたことなどが背景にあったとする指摘もある。ヴァリニャーノ「日本巡察記」によると、ドン・バルトロメオが「茂木なる町と共にイエズス会に贈与し」、寄進の内容は地内の田畠を与えることをはじめ、行政権や司法権、ポルトガル船の停泊料や貿易税などいずれも長崎と同様であるが、司法権のうち実際に死刑を執行する権利はなかったため厳しい統治ができず、かつての領主が得ていたほどの多額の収益をあげることはできなかったという。一五八七年豊臣秀吉によるバテレン追放令に次いで、イエズス会領の茂木Munquiなどが没収されたが、イエズス会がその命で立去るのであれば再び旧領主に返すべきものとして大村氏・有馬氏から要求されたものの、翌年改めて没収され、鍋島信生(直茂)が代官として派遣された(天正一六年四月二日「豊臣秀吉朱印状」鍋島文書、「一五八八年二月日本年報」イエズス会日本年報)

茂木村
もてぎむら

[現在地名]大胡町茂木

宮関みやぜき村の南西、荒砥あらと川右岸に位置。村の北部を東西に前橋道が、中央を駒形こまがた道が通る。字三ッ屋みつやのローム層中から旧石器時代の黒曜石を片面調整した尖頭器が発見されており、字かみやまに茂木古墳群、字天神風呂てんじんふろに天神風呂遺跡がある。茂木古墳群の一基である大胡町五号墳の墳丘裾部から鎌倉時代末期の墓地が発見され、板碑受けの石造と骨壺二個が検出された。板碑は元亨四年(一三二四)、嘉暦元年(一三二六)の銘があった。

茂木村
もてぎむら

[現在地名]太田市茂木

沖之郷おきのごうの北西に位置し、北端を日光例幣使街道が東西に通過し、東方をにら川が南流する。北は台之郷だいのごう、南は竜舞りゆうまい村、西は石原いしはら村・下小林しもこばやし村。江戸時代には茂手木村とも表記された。寛文郷帳では村名の表記を欠くが、以後の村高などから高六三〇石余、田方三八五石余・畑方二四四石余、館林藩領の村が当村に推定される。天和二年(一六八二)の分郷配当帳によれば、高六四一石余分が旗本村上三右衛門領などの七給。

茂木村
もとぎむら

[現在地名]牛堀町茂木

西は清水きよみず村、南は堀之内ほりのうち村。中世島崎しまざき郷に属し、茂木氏がこの地を支配したと伝え(新編常陸国誌)、「水府志料」に「大木戸、清水村堺にあり、何人の館跡なるや知らず。或は茂木隼人と云人の居ならん歟といふ。又御殿畠、御厩屋敷抔といふ字あり。是は先年水戸威公の別館ありし所也」と記されている。江戸時代は水戸藩領で、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高一〇九石余のほか、新田が七三石余記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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