若桜宿(読み)わかさしゆく

日本歴史地名大系 「若桜宿」の解説

若桜宿
わかさしゆく

[現在地名]若桜町若桜

現若桜町の中央西部、八東はつとう川の左岸沿いに集落が広がり、若桜往来(八東往来・播州往来)が通る。古代の八上やかみ若桜郷(和名抄)の遺称地で、中世にも若桜郷の中心地。鎌倉時代初期に八東郡に入部したと伝える矢部氏が、一五世紀末には当地に館を構えており、村の南部にそびえる鶴尾つるお山中腹には同氏によって築かれたとみられるおにヶ城があった。鬼ヶ城は木下氏・山崎氏と城主が替わっていくなかで、中腹から山頂へと中枢の建物が移されたと推定されており、山頂に大規模な遺構が残されている。当地はこの過程で城下町として都市化したが、山崎氏移封後は城が廃され、以後は若桜往来の宿場として、また在郷町として推移した。なお当地は正保郷帳には若桜町と記されたが、元禄郷帳作成時に若桜宿と改められ(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)、その呼称が幕末まで続いた。

一五世紀末には矢部氏の帰依をえた円教院日意によって日蓮宗蓮教れんきよう寺が建立されたと伝える。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳には「わかさいちは」とみえ、市が立っていたと考えられる。「家久君上京日記」天正三年(一五七五)六月一七日条には「若(桜)乃町を通けるに」とあり、矢部氏時代すでに都市となっていたことが知られる。木下氏・山崎氏時代の史料はないが、城下町は八東川とその支流三倉みくら川に挟まれた山裾、八東川の段丘面上にほぼ八東川と並行して北西―南東方向を長軸として営まれ、東の八東川、北の三倉川を総構とし、八東川の水を城下町の上流から引水、外堀・内堀や城下住民の飲料水・日常用水として利用していたとみられる。外堀は番場ばんば(車川)沿いに、内堀は御茶おちや川沿いに掘られていたと推定されており、外堀と内堀の間および内堀の山裾側に道が走り、侍町が形成されていた。山裾側の道の山側に殿町とのまちとよばれる字名が残るが、城主の館が所在したものと考えられる。北方三倉川右岸沿いには鉄砲町てつぽうまちの字名があり、足軽組など下級家臣の屋敷地域と推定されている。町屋は外堀の外側(八東川寄り)を走る幹線道路(若桜往来)に沿って形成されており、南東から北西へかん町・なか町・しも町と続き、上町・中町の外側、うら(東裏町とも)江戸時代中期以降には四寺院(寿覚院・西方寺・正栄寺・蓮教寺)が一直線上に並んでいた(「因幡志」、天保一四年「若桜宿田畑地続全図」若桜町役場蔵、「鳥取県史」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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